よくわかる法律入門 #15 憲法第19条について
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
思想及び良心の自由
先生「はい、きました。思想及び良心の自由です。有名ですね。戦前は思想犯を処罰する人権侵害が多発しましたから、その反省の下、憲法に盛り込まれました。」
学生A「じゃあ、いつもの通り、思想と良心の二つの言葉の意味が重要になりますね。」
先生「そうです。これは私のノート名でもありますから、しっかりとしないと・・・。でも、あまり難しく考える必要はありませんけどね。」
学生B「何かについて考えていれば思想家なんですか?」
先生「うん・・・。まぁ、そうですね。でも、ただ考えればいいっていうもんじゃないんですよ。思想の「思」は確かに、思うと言う意味です。これは一人でできますよね。「想」は、複数の存在に心がまたがっている、と言った意味です。相手、というときの相ですね。自分に対する存在です。だからといって、特定の一人のことではありません。私が相手にする人間、その他の生き物、世界、それは星の数ほどいます。その時、どのようにすれば、自分達の社会はもちろん、世界はよくなるのか?ということを思い、想いあうのです。相手があってこその心ですね。一人だけで考えるとすれば、例えば数学にのめりこむ人とか、研究するだけでも思想家になるのかな。思想っていうのは、意味が漠然としていますが、結局は私たちの共生の在り方を考えることと言っていいでしょうね。だから、国家がどうあるべきだの、ということもよく論じられるのです。そして、その考え方によっては、国にとっては都合の悪い結論を出してくる人がいるんですよ。」
学生A「ああ~。なるほど。なんとなくわかりますね。では、良心ってなんですか?」
先生「これはすごい難しいんですけど、私はわかりました。でもね、どうしてこの言葉が憲法に載せられているのか?ということは、実は私にもよくわからないのです。良心という言葉は、なんとなくなイメージで意味が理解され、そのまま思想と同じような意味で書かれた言葉なんじゃないかなと思っています。」
学生B「めっちゃ推測ですね。」
先生「はい。ですが、それにはちゃんとした根拠があります。私の考えた良心の意味を理解すると、どういうことなのかわかります。良心とは「相手を傷つけたならば、自分も反射的に傷ついてしまう心」を言います。この自由を認められても、自由を認められなくても、どうしようもないでしょ?そういう人はそうなっちゃうんだから。」
学生A「確かにそうですね。」
先生「例えば、北九州連続殺人事件の犯人である松永太は、良心の欠如が指摘されていました。良心があるということは、人を傷つけることによって、自分の心も傷ついていくのです。だからね、ついカッとなって相手を傷つける言葉を言って、ハッ!として謝るひとがいるじゃないですか。あれもね、自分が相手を傷つけたと感じて、その反射として自分にダメージが跳ね返ってきたからなんです。その人の本来持っている優しさが生み出すんですね。だから、良心を持つ人間は、ブレーキが利くんですよ。でも、松永太は良心がなかったから、ブレーキが利かなかったんです。」
学生B「なるほど・・・。」
先生「実は、このことに気が付いた後で、「明日のジョー」という作品を見ました。気が付いてから10年は立ってたかな。やっぱり、名作だけあって面白かったんですけどね。ジョーはハードパンチャーで、相手の顎を砕いてしまったり、ライバルの力石徹を殺してしまったりしたんです。(力石は無理な減量のせいで、身体の構成がうまく整っておらず、そのため脳出血が起きやすくなっていたんですけどね。)それがきっかけで、ジョーの良心はきずついてしまいました。ジョーが顔にパンチを打てなくなったのです。あれも、ジョーの良心がそうさせたのです。」
学生B「そ・・・そういうことだったのか~!(10年たってたかなってところがあざとい。)」
学生A「私は見たことありません。」
先生「あれは、良心とは何か・・・ということが正確にわかっている作品だと思うんですよ。それだけですごいなって思いました。ただ、このような感情が、果たして良心という言葉に結び付けられるのか、ということについては、そうではないという考えもあるかもしれません。」
学生B「何言ってるんですか?意味がわからない。」
先生「例えばね、嬉しいとか、楽しいっていうじゃないですか。皆さんには、嬉しいとか、楽しいっていうと、意味が伝わると思うんですよ。そして、この二つの感情を表現する言葉は、私たちの内部で起きている感情を表現した言葉です。ですけどね、この二つの感情は、私たち個人個人の内部で発生しているものなんです。私が楽しいとき、あなたも楽しいわけじゃない。私が嬉しい時、あなたもうれしいわけじゃないんですよ。」
学生B「そうですね。」
先生「じゃあね、こう考えられませんか?例えば、私が嬉しいって感じているときの感情が、実はあなたにとっては、悲しいという感情である・・・。これは行き過ぎましたかね。じゃあ、例えば、嬉しいって感じている感情が、あなたにとっては、私の楽しいと言う感情と同じだとすれば?」
学生B「あ~。そういうことか。僕が楽しいって感じている感情が、先生の中では、僕にとっての嬉しいと言う感情で、だから喜んでいるっていうことがあるんですね。」
先生「はい。自分の中で沸き起こっている感情を、言葉に結び付けて私たちはお互いの感情を理解した気になっているんですけどね。実は、この時、私たちの感情を、言葉にいい表す、もとい、言葉と結びつけることに失敗している可能性もあるんじゃないかって思うんですよ。」
学生B「そんなことあるんですか?」
先生「ありますね。悲しいとか、嬉しいとか、悔しいとか、そういう感情は、かなり多くの人間に共通し、ほぼ間違いなく、言葉の表現=皆が味わったことのある感情になっているはずです。そういう感情は、私たちもお互い理解し合えることが多いわけですね。ですが、良心の呵責を感じるとか、良心が傷ついた!とか言われると、え?どういう意味?まぁ、なんとなく良くない感じになったわけね・・・ということになりそうです。」
学生A「何となくはわかりますし、私も人を傷つけて自分が傷ついた、嫌な思いをしたっていうこと、あります。」
先生「そうですね。人の心の中で沸き起こる感情は、人によってその量も異なると私は考えていますし、1つの感情だけではなく、別の感情と混ざっていることだってあると考えています。だから、感情というものが色であるとすると、様々な色がこの世界にあるように、色全てにちゃんとした名前がつけられているわけではないということですよ。だから、私の今の気持ちや感情は、この色なんです・・・って言われても、皆にとっては、ちょっと違う色であることが、普通なんじゃないかなって思うんですよね。」
学生A「嬉しいという色を、色の三原色の赤とすると、皆に理解可能。苦しいを緑。悲しいを青。確かに、感情を色で表現することって多いですね。今日はブルーだ・・・とか。」
先生「はい。つまり、感情は様々な他の感情と混ざり合い、その人の心の中で1つの色として合成される。その色に名前をつけている。でも、その名前を聞いた時、果たして他の人の心の中でも、全く同じ色の感情が沸き起こっているのだろうか?と、そういう疑問ですね。私にとってのブルーは、群青色なのに、その人にとってのブルーは、真っ青のブルーの感情だった・・・ということですね。同じような感情でも、イコールではない。」
学生B「あ~・・・。わかった・・・。でも、思想家って・・・。ほんと、何でこんなこと考えるかな~っておもいますよ・・・。」
先生「はい。それと同じように、人の心には様々な感情が沸き起こります。恋、愛、嫉妬、悋気、憤怒、強欲、色欲、傲慢、劣等感、優越感、憎悪、希望、絶望、怠惰、悲哀、悦楽、良心・・・。他にもあるかな。このような感情を皆さんは胸の中に抱いたことがあるか・・・。そして、あなたたちがその感情を抱いたとしても、それは他の人と全く同じか・・・。まだ、名前のない感情があるのではないか・・・。」
学生A「難しい・・・。」
先生「ですね。そして、「他者を傷つければ、反射的に自分も傷つく」という感情が、果たして良心という言葉と紐づけられるのかどうかは、実はわからない・・・ということです。私が最初に言いたかったのはそういうことです。言葉を最初に産みだした人は、その感情を感じ、その感情に名前をつけた。しかし、その感情につけられた名前は、他の人達が自分の感情を表現するときに、正しく選択され、表現されたものなのだろうか・・・。」
学生B「うん・・・なんとなくわかりましたよ。僕たちの中にある感情は僕たちにしかわからない。でも、その感情に名前を着けて、お互いがお互いの中に沸き起こった感情について話し合い、理解しあっている。でも、ひょっとすると、すれ違いが起きているかもしれないってことでしょ。」
先生「そうですね。そんな感じ。で、良心という気持ちが私たちにあるとして、果たしてそれは私たちの中にある、どのような感情なんだろう?ということです。で、私は、良心っていうのを、「人を傷つけることで、初めてその存在がわかるタイプの感情なのではないか・・・。」と考えた。そういうやっかいな感情だということです。」
学生A「なるほど。私も自分が良心を持っているかどうかなんてわかりませんけど、人を傷つけた時に自分も傷ついちゃうっていうの、わかる気がします。でもこれは、私、「罪の意識」だと思っていたんですけど・・・。」
先生「グレイト!そうですね。丁度いいモデルケースです。私が言った良心という心は、学生Aさんが心の中で感じた「罪の意識」とどう違うのか。実は違わないかもしれない。それは、私たち自身の中でしかわからないですよ。」
学生B「そうですね。自分は罪の意識を感じます。と人に伝えた時と、良心が傷つきました。と言ったときとでは、人に伝わる僕の中の感情は、全く違っているのかもしれないし、同じように聞こえるのかもしれない。」
先生「はい。私たちは、感情を持って生きている。でも、感情のことを大して理解できていないんですよね。で、これを話すぎると脱線してしまうので、ここら辺にしておきたいのですが、良心というのも、内面の感情の一つであることは確かです。この憲法の条文で保護されているのは、個人の内面を、国が勝手に推測して決めつけたり、あるいは聞き出そうとすることはできない・・・という話になっています。だから、私たちの内部にある感情が何であるかはさほど論じる意味がないのです。思想だろうが、感情だろうが、内面には立ち入りません・・・ということですね。」
学生A「そうなんですか・・・。」
先生「はい。そう思ってていいと思います。よく、刑事事件で黙秘権を行使する、ということがありますけれども、これも、思想及び良心の自由が根拠となっていますね。思想を調査するっていうのは、私たちの心の中の情報を調査するっていうのと同じですからね。」
学生B「なるほど・・・。」
先生「よく、テレビドラマで、本当に何も知らない人が、かわいそうな拷問を受けて、情報をはかされようとしていることがありますよね。私たちはその人が絶対にそんなことしてないっていうのが、物語全体から見ててよくわかるから、やめてやれよ~とか思うんですよ。でもね、現実はそうはいかない。自分の知りたい情報を持っているかもしれない・・・と考えた相手がいると、何としてでも知ろうとする人間や、自分達の都合のいい答えをその人に言わせようとする人も良くいるんですよ。私たちだって、自分達が知りたいな~どうしても知りたいな~って思うと、そういう行動に走っちゃうことがあるんですよ。」
学生A「なるほど・・・。」
先生「結局、国が個人を保護してもね、個人が国ですから、内面の自由が侵されることは、現実的にはよくある話なのですよ。良心の自由について、私の考えを述べさせていただくとね。戦時中、兵隊さんたちは人殺しを命じられましたね。だけど、人を殺したら、今度は自分が傷つく。それが良心の心の作用です。だから、自分がしてしまうと傷ついてしまいそうな行為を、させられないようにする自由が認められた、と言っていいかもしれませんね。よくあるんです。この人はこう考えているんだ!と一方的に決めつけてしまう人とかね。こういう時、いざこざが起きますし。もちろん、決めつけた方が正しいこともあるんですよ。自分の考えや感情を、他人に勝手に決めつけられて、他の人に吹聴されると、すごい嫌な気持ちになってくることはありませんか?それと同じです。」
学生B「ありますあります。なるほど。」
先生「私の言った良心の意味が、本当にその通りの意味だとすればね、死刑執行人の刑務官の人とか、死刑執行ボタンを押すことで傷ついちゃう人っているんですよ。もしこの憲法の条文の意味が、私の解釈通りだとすると、仕事だからといって、死刑の執行のボタンを押さなければならない、というのは、良心の自由を侵しているのではないか・・・という問題意識が立ち上がりますね。」
学生A「あ~。そっか。」
学生B「でもそれって、嫌なことを代わりにやってもらうっていう気もしますね。」
先生「はい。今回の話とはそこまで関係ないかもしれませんが、良心の持ち方には批判的な目線もあります。例えばね、私たちは牛や豚、魚なんかをよく食べますよね。その時、牛や豚を殺して肉を解体してください。って言われた時、嫌だ!牛や豚が可愛そう!!!って思っちゃう人、多いんですよ。でもそういう人たちって、一方でね、牛や豚肉を食べて、おいし~って言っている人でもあるんです。どちらにせよ、牛や豚が死んでいることは変わらないじゃないですか。誰が殺すか。誰がその命を奪うか。それが違うだけで、牛や豚は結局死ぬんです。となると、自分が殺したくないって言っている人は、良心はあるかもしれないけど、すごいずるい気がしますよね。自分の手は汚さない人って感じでね。」
学生A「はい。そうですね。」
先生「私が個人的に分析している松永太も、実は良心がとても強かったかもしれない…と思っているんです。」
学生B「え!あのサディストが!?」
先生「はい。良心っていうのはね。別の人がやってくれたら痛まないんですよ。だって、明日のジョーでも、ジョー以外の誰がボクシングやっても結局相手が傷つくんです。今だって、誰かと誰かが試合しているかもしれない。其れで誰かが死ぬかもしれません。選手生命を絶たれることだってあるわけです。そういう選手は多いんですよ。でも、ジョーも、自分がそれをしていないのであれば、自分の良心が傷つかなかったはずです。良心はね、自分が直接手を下すことで、傷ついてしまうんですよ。でね、松永太は、ずるいことに、具体的な犯行行動や証拠の隠滅も、全て他人にやらせていたんです。」
学生B「超ずるい・・・。」
先生「でしょ。良心が傷つくのを恐れていた可能性も0ではありません。彼の頭の中では、別に自分がやれって言ったわけじゃないんだよ…っていうくらいの意識なんですよ。とはいえ、やばい人であることに違いはありませんけどね。私は、良心がない方に1票ですけどね。」
先生「また、良心は麻痺させることができます。」
学生A「麻痺?」
先生「はい。例えばね、物凄い規則に厳しい人がいて、その規則を理由に、人を傷つける人が多くいるんです。警察官とかもそうした人が多いでしょう。その規則があるから自分はやっているんだっていう正当化理由ですね。宗教に入っている人も、こういう人が多いかな。神の命令だからするんだ・・・っていうとね、良心が傷ついても、痛みを感じないことがあるわけです。私がやっていることは正しいことなんだ・・・ってね。これは仕方のないことなんだって。」
学生B「なるほど。」
先生「でも、その麻酔が切れた時、激しい苦痛を覚えるかもしれませんけどね。それが怖いから、余計神様が言ったからだって、それを信じてしまうのかもしれませんね。そういう意味で、思想及び良心の自由は、信仰の自由とも結びつくのでしょう。徳川時代に踏み絵が行われたこともありますからね。良心を持つ人が、自分の手を汚さない、という意味で、ずるい人間として批判すべき部分はあるんですけど、これを無理やりどうにかしようとするのも、やっぱり人権侵害っちゃ人権侵害なんですよ。」
学生A「なるほど。」
先生 「ちなみに、私が過去に描いた記事に、【小さな悪の華の裏を読む】という記事があります。このドラマは、良心を傷つけていく二人の女の子の物語です。でも、今となっては、Aさんがおっしゃるように、罪の意識というものについて説いたドラマだったかもしれませんね。」
私の持っている憲法の本には、「良心」とはこれだ!とズバリと言っている本は見当たりませんね。