よくわかる法律入門 #6 憲法第12条について

6~

権利の濫用と公共の福祉 
憲法第12条

『この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。』
 
先生「で、この憲法は、1945年に作成されたのですが、施行は1946年でしたかね。世界に誇るべき内容であるとされています。自由主義、平等主義、人権に配慮された、素晴らしい内容だとね。このような憲法が作られた背景は、日本の軍国主義を代表とする、戦争への反省が大きかったわけです。でも、憲法をどれだけ高らかに掲げたとしても、内部の国民が適当な人間だと、せっかくの美しい憲法も意味を無くします。法律に人間が追い付いていない状態ですね。戦争時代、人間が自然権を好き勝手に行使しまくっていた・・・。その反省で理想的な憲法をかかげた・・・のですから、現実的な人間が、まだそれに合うように育っていないのです。
 ですから、第12条で、不断の努力で、これを保持するように要請しています。」

学生A「不断の努力でと言われても・・・。何をすればいいんですか?」

先生「不断の努力で守るのは権利と自由ということが読み取れますね。権利と自由についてはすでに学びました。権利とは何かについては、【#よくわかる法律入門:権利とは何か】を読んでください。自由とは何かについては、【よくわかる法律入門:義務とは何か】を読んでください。そして、憲法が保障する、ということについては【よくわかる法律入門:憲法第11条について】を読んでくださいね。」

先生「不断の努力というのは、絶え間ない努力ってことですが、努力の内容は全くわからないですよね。でも、権利と自由を保持するためにしなければならないことである、それは確かです。権利や自由というもの自体を得続けたい、それらを自分たちが確保していたいのであれば、それに対応する義務を果たし続けなさい。ということです。これが私が過去記事で述べてきたことと符合します。」

学生B「いずれにせよ、曖昧ですねぇ」

先生「ええ。権利とは何か。自由とは何か。それがわかれば、おのずとそのためにとらなければならない行動も見えてきます。権利というものが目標であるとすれば、それを満たすために必要な義務が手段だからです。それくらいは自分で考えて行動してよってことですね。自然人としては、当然でしょって。で、ここはこれで終わります。次の項目。
『又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。』と書かれていることに注目してください。」」
 
学生A「濫用とか、公共の福祉って一体何なのかって思うんですが」
 
先生「はい。権利、義務とくれば、その義務に伴う責任があるわけです。これも過去記事を読んでいただければわかる話ですね。権利を満たしたいから、そのためにあなたたちには行動する義務があるのだけれども、その義務を遂行する際には、公共の福祉のためにすることを責任として持ちなさいってことになるわけです。権利・義務・責任この3つは一蓮托生であり、これらを満たすことで自由が確保されるのでした。これは国⇒個人への自然権の行使にも言えることだし、個人⇒国への自然権の行使にも言えることです。」
 
学生B「そんなこと言われても、濫用の意味もわかんないし、公共の福祉の意味なんて、もっと分からないですよ。」
 
先生「では、権利の濫用から説明したいと思います。権利の濫用は、『権利』に関係していることは明白ですね。権利とは、自然人がこれから自分に取り入れたいと思う何らかの見えない利益でした。権利とは何かについては、【#よくわかる法律入門:権利とは何か】を読んでください。

 では、それを濫用するとはどういうことでしょうか。例えばね、昔はよくあったんですけど、気に入らないな~と思った国民がいたとしたら、刑罰権をその人に対して行使するわけです。よく、歴史ドラマでもあるじゃないですか。悪い為政者が、邪魔な個人を犯罪者に仕立て上げる物語。」
 
学生A「ありますね。」
 
先生「もちろん、自然権からすれば、それもやってOKなんですよ。でね、その人個人がたとえ無実の人間であったとしても、手続きにさえ従っていれば、有罪にすることもできてしまうんですよ。実際、ドラマでもそうなってるでしょ?」
 
学生B「ええ。うまいですよね。よくあるのが、政府側の企みによって犯罪者として仕立て上げられて、その子どもが逆境を乗り越えていく、韓流ドラマで見たことがあります。悪人は、こんなことをよくも考え付くものだなって思いますよ。」
 
先生「ええ。でもね、悪人さんたちはうまいんですよ。手続自体は問題がないんですよ
 犯罪者はまず容疑をかければ逮捕できます。で、昔は拷問が出来ましたから、拷問にかけることができる。で、大体裁判官も悪人だったりします。そのうえ、犯罪者だとみなされた人間たちの言うことなんて、皆信じないでしょう。
 国側は、この個人を黙らせたいな、好きにさせたくないな・・・って思うことで、その権利を行使してきたわけなのです。しかし、手続はちゃんと行います。だから、手続がおかしいと文句を言うことができない。とすれば、どこが問題なのかというと、この場合は、主観なのです。」
 
学生B「主観・・・。心の中の考えってことですか?」
 
先生「その通りです。権利の濫用は、客観的な側面については想定されていません。なぜならば、客観的に権利の濫用だと認められる場合は、バレるのですぐに修正されるからです。そして、違法なので権利の行使自体が認められないはずなのです。だから、権利の濫用というまでもなく、別のことで処理されます。
 外観でいえば、正当な権利の行使だ。全く問題がない。でも、実際は、自分の私欲を満たすための手続きだった。この時、「権利の濫用」だと言われるのです。
 自分の利益のために、権力を利用しているのですからね。全国民のために権力を使わなければならないのに、自分のために使っているのです。だからダメ。もちろん、個人がやっても同じことです。」
 
学生B「なるほど・・・。でも、そんなのってどうやって見抜くんですか?」
 
先生「普通は見抜けませんよ。ドラマの中で権力の濫用、もとい権利の濫用が行われますね?で、主人公が頑張って、物語がハッピーエンドで、悪人が逆に痛い目にあう。そういうのは、たいていが物語だから・・・というのが現実でしょう。」
 
学生A「そんな・・・。」
 
先生「だからね、この権利の濫用というのは、例えば先ほどの国籍法の話だと、私は手続きにのっとって国籍を変更する分にはまったく問題ないのです。でもね、私が国籍を変更しちゃうと、誰かが困るとしましょう。その人を困らせる目的で国籍を変更するとか。これも一種の権利の濫用と言えるでしょう。
 逆に国籍法がなければ、国側が勝手に都合の悪い人間を、日本人じゃない!と決めることだってできるわけです。よくいますね、こういう人。
 つまり、一言で言うと、あなたには確かにそれを行うことの出来る権利があるのだけれども、その利益の満たし方が、道理に叛くような満たし方だ、ということなんです。そういうことはしないでねっていうことです。法律は、ある程度道徳を基礎地にしているんですよ。」
 
学生B「難しいですね。道徳自体何なのかよくわからないのに・・・。しかも人の心の中身なんて見えませんよ。」
 
先生「はい。常識というのも曖昧でよくわかりませんし、道徳も倫理も、それ自体が法律と同じ大きな学問対象ですからね。ですから、とても曖昧な記述ですね。特にこの条文は、人の善意にすがるしかない条文なので、空想規定だという面もあるにはあります。」
 
学生A「じゃあ、どうするんですか?」
 
先生「完全に主観の中にしか真実がない場合はもう見抜けません。見抜けませんが、客観的事実から推測できる場合は、そう見なされることがあります。民法で有名な事件があります。昭和9年の事件ですか。宇奈月温泉事件と言われます。温泉を立てるために、土地を買収するんですが、配管が及ぶ範囲の土地を買収しきれなかったんです。つまり、配管は、土地を買収する前に設置し終えてしまっていたんです。ということは、他人の土地に勝手に配管を張り巡らせていたことになります。そこに目を付けた人が、宇奈月温泉が買収しきれなかったその土地を購入し、土地所有権を侵害していると言って、宇夏樹温泉側にその配管の撤去を求めたのです。
 その人は、これを主張すれば、相手から大金を取れる、と目論んだのだと言われています。
 これも、土地所有者の権利としては当然認められるんです。そして、その土地を購入するのも何の問題もない。ですが、撤去にはとてつもないお金がかかるのです。だから、この人の権利の主張は認められませんでした。このように、権利の濫用があるかどうかは、具体的な事件を通して判断されることになるのです。(大体は結局こうなっちゃうんですよね。)で、裁判官が、権利者の主観を推定することになります。結局、法は人の胸三寸にあるのですからね。
 確かに怪しいですよね。配管の通っている土地があり、その買収しきれない土地を自分があえて進んで購入して、文句を言ってくるなんて。文句があるなら買うなよって思いますよね。」
 
学生B「うん・・・。怪しい。そういうことか・・・。裁判官にそう思われた以上は、どれだけそんなつもりない!って言っても、そう決められちゃうわけですね。そして、その人のそれまでの手続きは、全く法律的な違反がない・・・。手続きはちゃんと行っているっていうのはそういうことなんですね。」
 
先生「はい。そうです。この土地購入者は、法律の手続きとしては全く問題ない行動をしています。しかし、彼の心の中では、相手から巨額の金をふんだくれる!と思う心理が見て取れます。しかし、人の心を取り出して、はい、これが私の心です。どうぞよく御覧になってください。ということはできません。そういう意味で、本当のことは絶対にわかりません。

 何度か言ったことですが、法律っていうのは所詮は全て見なしなのです。法律であらかじめ、あらゆることに明確で合理的、誰から見ても納得できる線を引く事が出来、全てを物証によって証明できればいいですね。しかし、それは難しいというか、できない。
 私としても、こういう曖昧な規定はなくしたいですし、全てを物証化してやりたいくらいです。つまり、常識とは何か・・・道理とはどういうものか・・・全てを明らかにしたうえで、この条文を読みたいのです。それをしないうちにこの条文を読むのは、何だか気持ちが悪いのです。」
 
学生B「分かる気がします。」
 
先生「例えばね、あなた達みたいな学生の間でよくあることは、お互いに悪口を言い合うとか、あるじゃないですか。もちろん、悪口を言う権利も、自然権ですから、自由にやってもらって結構なんですよ。でもそれだと気持ちが悪いわけじゃないですか。」
 
学生A「そうですね。そうですそうです。」
 
学生B「お前、俺の悪口しかいってないやん。」
 
先生「でも、己の欲せざるところ、他人に施すこと莫れ、という孔子の有名な言葉がありますし、これは道徳として十分成立しているわけですね。濫用というのは、権利の行使が自由なのはその通りだけど、だからといって、道徳や倫理に背くような使い方はしないでくださいね。と言う意味なんです。そういう意味で、ここは、その人間の善意にすがるしかない・・・というところでもあるのです。」
 
学生B「あ~。先生、ここに憲法違反者がいますよ!」
 
学生A「煩いわね!」
 
先生「まぁまぁ。そういうのを学ぶのも学校の役割と言えば役割です。私には仲が良いように見えますけどね。本当に嫌なら、学生Bさんもずばっ!と言わなければいけませんよ。ルールは目に見えない虚構の存在なのです。他人の自然権を好きにさせておくことによって、自分の自然権が制約されたり、自分の自然権が十全に必要な程度に満たされなくなることは、私人間ではよく起きるのです。
 言い忘れましたが、よく自然人と自然人の個々人の間、と言う意味で「私人間」と言う言葉を使います。
 人はね、結局人の目を意識してルールを守るのです。そして、人の目の中でも、どんな人の目を気にするかと言うと、自分が文句を言われても太刀打ちできない、と思う人の目を気にするのです。もしルールなんてなくても、人の目がそれを許さないと感じれば、守らなくてもいいことまで守ろうとします。逆に、その人が大して文句も言わない、全然怖くないと思えば、緩んでしまうものなのですよ。だから、怖くないと思われれば、相手の自然権が十分満たされていなくっても放っておくどころか、自分の自然権を相手を通して満たしていく、そういう使い方をしてくるものなのです。ルール通りだと思えば強気になる人もいるものですし。
 どちらにせよ、このような不平等な関係は、社会を構成する存在としてはよくありません。それは確かなのです。国⇔個人の関係は、互いに対等であるべきなのですね。個人⇔個人の場合も同様です。権利の濫用の規定が置かれているのは、そうなるように権利を行使していくことを望んで書かれたものなのだと思います。」
 
学生B「ふぁい。なるほど・・・。」
 
学生A「私も・・・悪かったわよ・・・。」
 
先生「まぁ、いいとしましょう。権利の濫用は、これが絶対正解と定まるものはありません。一つ一つの具体的な事件に対して道理を貫いていく。そうした地道な作業が必要だと私は考えています。
 
 ただ、明確な線は、曖昧な物事の中にもいくつか引くことができます。権利の濫用は、権利者の主観に自分の利益を優先する心理があることはもちろんのこと、その利益を優先させてしまうと、恐ろしく不均衡な結果が発生すると判断された場合に認定されることが多いですね。」
 
先生「そして、もう一つ付け加え。この規定は、他の法律にも活かされています。例えば、民法では、『権利の濫用は、これを許さない』と、第1条の3項で規定しています。この条文ができるのは、憲法12条をルーツとするからこそなのです。」
 
学生B「なるほど・・・。でも、憲法は国⇔個人の関係でしたよね?民法は私人間の関係を定めたルールだって聞くんですが、それって本当なんですか?」
 
先生「いい質問ですね。原則は国⇔個人の関係を調整するのが憲法の役割です。でもね、個人同士の関係で、自然権を好き勝手に、乱暴に使われると、やっぱりそれはそれで問題。つまり、憲法が予定している秩序を脅かす恐れがあるのです。
民法は確かに私人間の関係に対するルールです。でも憲法は、自然権思想を背景として生まれてきたものであり、自然権は法律の産みの親です。そして、様々な法律は、憲法を根拠として産まれてきます。だから、憲法は、全ての法律の産みの親だという側面をもっているのです。とすれば、私法上の関係であっても、それが憲法の趣旨に反するような状態になれば、憲法が一定の範囲で介入する、ということも認められるべきなのです。
 そのために、憲法が制定された趣旨を、私法の一般条項(権利の濫用など、民法全体に共通して適用される条文)を通して読み込むようにしているのです。
 私は、この条文が民法に定められているのは、憲法があるからこそだと考えています。憲法がなければ、自然人の自然権を抑え込む根拠が、そもそも存在しないわけですからね。憲法が無ければ、個人のバトルで決着つけてくださいってなるんですよ。今でも漫画の世界では、『面白れぇ。わかりやすくていいな。』みたいなやり取りに発展しますけれども、あんな感じです。」

学生B「なるほど。」
 
先生「『これ』を濫用してはならないのであつて、の『これ』なのですが、権利と考える場合と、権利と自由の2つを指すと考える場合があるかと思います。」

学生A「そうですね。(うわ~。ややこしい)」

先生「自由を濫用する、と言う言葉は聞きなれませんが、自由の中には権利が含まれている。そして、義務と責任も含まれている。とすれば、義務と責任を濫用することができるように読める。とはいえ、濫用の意味がまずは分からなければならないので保留します。もし濫用できるものであれば、しちゃいけないことは同じです。権利の濫用を説明するのは難しいのですが、とりあえずこれくらい知っておけばいいでしょう。」
 
学生A「では、『公共の福祉』というのはどういうことでしょうか。」
 
先生「例えば福祉というのは、介護の現場が想像されますね。「公共」とは私の辞書だと「社会一般。おおやけ、また、社会全体或いは国や公共団体がそれにかかわること。(デジタル大辞泉)
 そして、「福祉」とは、「公的配慮によって社会の成員が等しく受けることのできる安定した生活環境」(デジタル大辞泉)ということですね。私たちは、皆自然人です。だからといって、皆同じ年齢、同じ姿形をしているわけではありません。それぞれ、全然違います。老若男女、障害の有無なども、千差万別です。
 こうした人たちが、等しい生活環境を享受できるようにしていくことを「福祉」といいます。バリアフリーは、まさに「福祉」の一貫ですね。それに『公共の』、ということが関わっていますから、これは私たち皆の、と言う意味ですね。
 まとめると、『私たち国民全体が、それぞれ等しい生活環境を享受することができるようにすること。』になります。
 最近は、様々な公共施設で、障害者や高齢の方に配慮した仕組みが取り入れられたり、外国人が旅をしやすいように街を整えたりする、と言うことが行われるようになりましたよね。(外国人については憲法上の保障はないので、慣習によってこれが行われていると言うべきですけど。)」
 
学生B「なるほど。それが公共の福祉か・・・。」
 
先生「まぁそうなんですが、それだと単に福祉を推進しましょうっていうことになります。ところが、この言葉は、もっと広い意味で使われているのです。」
 
学生B「えっ?」
 
先生「私たちの自由や権利というのは、確かに認められているんだけど、公共の福祉のために利用する責任を負う、と書かれていますね。この言葉の意味を探ってみると、例えばこんな感じ。
 木の実は取っていいけど、取りつくさないようにお願いね・・・。とか、メンドクサイからと言って、枝をぼきっと折ってしまうのはやめましょう。勝手に柵で囲って他の人間たちが取れないように妨害するのはやめよう。食べたものをそこらへんに捨てない。自分だけのものにして、人を足蹴にしない。そういうことなんだろうなと思います。権利を満たしたいだけならば、どんな方法をとってもいいのです。それが自然権の実際なのですから。でも、どんな方法をとってもいいからといって、枝を折られたり、柵で囲って鍵をかけて自分しか開けられない状態にして独占する、とかいう話になると、それは権利を満たすための手段としていかがなものか・・・ということになるんですよ。

というわけで、先ほどの福祉の意味と考え合わせると、
 
『権利を利用するように当たっては、その権利の行使をするための義務、それに伴うリスクや、減耗なども、あなた達自身が背負うようにするのは当然だが、その責任としては、あらゆる人々の生活環境が同一水準となり、またその水準が向上していくようにする責任も、あなたに行動にかかっているのです・・・。と言った意味だととらえれば、今までの勉強通りになるはずです。』
 
学生B「あ~・・・。分かった気がする。皆が気持ちよく木の実を取れるように配慮する責任もあるんだ・・・ってことですね。」
 
先生「はい。」
 
学生B「でも、こういう曖昧な言葉が多いから、法律って難しいですよね。それに、僕、公共の福祉のために動いたことってない気がするんですよね・・・。」

先生「そうでしょうね。例えば、一定の間隔で溝の掃除をするとか、ゴミを拾うとか・・・。適当なところにゴミを捨てないとか・・・。小さな子供や、お年寄り、障害者の方達にも配慮して行為しろとか。そういうことは、ご近所さんがよくなさっています。これも立派な公共の福祉なのでしょうが、これはまだレベルとしては日常生活段階の話です。例えば、知識として専門性が必要になってくるケースでも、公共の福祉に配慮してその権利を行使しなければならないことになります。例えば、暫くは見過ごされてきたのですが、環境問題に配慮した車の製造とか、工場の建設、産業廃棄物等の処理とかね。だから、学生さんが実際に公共の福祉を意識することは稀なんじゃないでしょうか。自然権は無数にあると言いました。とすれば、自分が何らかの自然権を満たしたいと考えるとき、他の人の自然権が多分に関わってくるのです。言っちゃいますと、非常にメンドクサイのですよ。だけど、公共の場では、しっかりと他者の自然権に配慮することが重要となるわけです。私が辞めてほしいのは、公共のトイレで汚い使い方をすることですね。」
 
学生A「それ一番嫌ですよね。」
 
先生「公共の福祉を字面で解釈すると、福祉を維持・向上しましょうみたいな感じなのですが、実際には、『人権と人権の相互の衝突を調整するための原理』と言われています。自然権を満たそうとして、適当な義務の履行をされたり、無責任な結果を残されたりすると、他の自然権の保持者が、それを気持ちよく満たせなくなってしまいます。だから、そういう方法を取られると、自然権と自然権の保持者同士が争い合う結果になる。とすれば、公共の福祉は、このお互いの自然権の調整を行うためのものだ。という考えに至るわけですね。」
 
学生B「ああ~。なるほど・・・。確かにそういうことになりますね。」
 
先生「ある人の自然権をあまりにも勝手に実現させると、他の人の自然権が脅かされる。例えばさっきの例でいったように、木の実をとるのに、木の枝ごと折っていく、とかね。そういうことをされると、木が弱ってしまったりするかもしれません。ひどい場合は、木を切り倒すとかね。ここでとりあえず言いたいのは、あなたの権利だけではなく、他の人の権利にも配慮して、自分の権利の行使をしてください・・・ということです。権利の濫用と、公共の福祉が並べて書かれているのは、ちょっとニュアンスが違うけど、結局は他者の権利を困らせるような使い方はするな、ということになるんですね。そうすると、全体の福祉の水準が下がるから・・・という理由があるからでしょう。」
 
学生B「そういうことか・・・。でも、それだと権利の濫用も公共の福祉もそんなに変わらない意味に思えてきますね。」
 
先生「そうですね。『これを濫用してはならないのであって、』と言う文言から、濫用をすると、公共の福祉のためにならない、という意味にとることが出来るとも考えられます。つまり、権利の濫用をすることが、公共の福祉のためにならない行為となる・・・先後関係になっていると読み取ることもできますね。だから、汚い話をするとね、汚い便器の使い方をするのも、もちろんあなたの権利だし、それに対する罰則はないんですよ。だけどね、メンドクサイから汚いままでいいや・・・という主観があるため、それも適当に済ませてしまう。やっぱり私たちは、そういう行動や態度によって、その人の何らかの悪い主観を見てしまうものでしょう?これは処罰されるかどうかなんて言うのはルールとしては無いですし、実際誰がしたのかバレない場合が多い。だからこそ、人はこういうことも平気でやってしまうことがあるのですね。『男はつらいよ』では、国鉄職員の書いた詩が、朗読されるシーンがありますが、昔の便器はあんな感じで汚かったのだなと・・・。」
 
学生A「先生~。もうやめてください。もっときれいな例えはないんですか。」
 
先生「すいません。でも、権利の濫用と自然権の関係がよくわかるでしょう。公共の福祉については、学説が二転三転しており、また、二つの衝突する人権のうち、どちらをより優先するか、ということは、それを判断する基準を巡って意見がわかれたりしています。そして、具体的な事件を通して判断されるようになっています。」
 
学生A「そうでしょうね。これだけ曖昧な言葉なんですから。」
 
先生「公共の福祉と言う言葉がどういうものなのかは、具体的な事件を追うことをお勧めします。また、公共の福祉と言う言葉は、憲法では他のところでも出てくるのです。第12条、第13条、第22条、第29条ですね。」
 
学生B「そんなに・・・。」
 
先生「そして、権利の濫用や公共の福祉というのは曖昧な表現なので、ここで全てを語ることはできません。でも、憲法の条文の、その文言が曖昧であることは、一つの便利な結果をもたらすのです。」
 
学生B「便利な結果?」
 
先生「はい。ガチッ!と意味を固定してしまうと、それ以外は絶対に認められなくなっちゃいます。具体的なケースにどんなものがあるのかは未知数ですからね。だから、広く意味を解釈できるようにしておくのです。ですが、国⇔個人や個人⇔個人の自然権の調整を目的とするものであることは大きな道筋です。曖昧なんだからと無制限に意味を決めつけてはいけません。憲法ができた趣旨をしっかりと理解しておいてください。だから、その趣旨から権利の濫用と、公共の福祉の意味を捉えることが必要なのです。そのために、『人権相互の衝突を調整するための原理だ』なんて言われているわけで、趣旨がわかれば、どうしてこんな意味になっているのかも、わかるということになるのです。」
 
学生A「なるほど!そういうことか~!」
 
学生B「曖昧は曖昧。だけど、分かった気がします。」
 
先生「はい。学者さんによっては、『実質的公平の』原理という方もいらっしゃるし、確かにそうだなと思いますね。曖昧な言葉の中でも、大きな道筋は示されているのです。これは全てのことに言えるのです。人によっては、ここが十分理解できていないんですよ。びっくりすることが、『解釈に依るでしょ?』とか言って、その趣旨を無視していることがある、ということです。例え曖昧でも、何でも自由に意味を決めつけていいわけはありませんからね。
 とりあえずはこれでいいでしょう。では、11条と12条は、取り合えず終わったことにしておきますか。」
 
学生A「はい。今のところは大丈夫です。」
 
学生B「俺も。」
 
先生「では、次は順当に13条ですかね。最後に、大切なことを確認しておきます。」
 
学生A「何ですか?」

先生「今までの話を読んでいただくと分かると思うのですが、前著では、自然権を国に信託したことで、国対国民の関係で話を展開していきました。しかし、これだけだとまだ考えとしては浅すぎるんです。国が自分の自然権を個人に対して使った場合。個人が国に対して自分の自然権を使った場合。個人が他の個人に対して自分の自然権を使った場合。そして、個人同士が集団化し、多数者となって、他の少数者なり、別の集団なりの、個人や集団に対して自然権を使った場合など、様々なケースが存在しています。これらの自然権相互の関係があるのだ、ということは、あらかじめ理解しておいてください。特に、憲法第12条では、私人⇔私人の関係も考慮に入れていますよね。私人は、私人が集まってできた集団も、私人とされるのです。」
 
学生A「わかりました。確かに、自然権がある以上、そのパターンはみんなありえますね。」
 
先生「はい。では次の話に参りましょう。」

この章のまとめ


権利と自由は不断の努力によって保持しなければならない。不断の努力をしろと言われても・・・。というわけで、「不断の努力」って一体何をすればいいの?という話になる。これは、権利とは何か、自由とは何かを理解することが先決。

権利を満たすためには、そのための義務を履行する必要があり、それには責任が伴うことは前回までの話で学んだ。とすれば、権利を保持するためには、義務と責任をしっかりとすることによって保持し続ける、という意味だと考えられる。そして、結果として、それにより、権利・義務・責任が個人に帰属する自由が確保される。

権利の濫用とは、専ら、権利の行使者の主観に問題がある場合だ。客観に問題があれば、誰から見ても問題があると言うことがわかるので、すぐに是正される。主観は目に見えないから、場合によっては気づかれない。権利の濫用は、道義に背くので、やめてくださいと、その人の善意に訴えるほかない。あまりにも怪しい場合は、裁判官に心理を推定されることがあるから、ばれないように頑張ろう(笑)

自然人1人が自分の権利を満たしたい時、それを満たすための義務を履行し、それに伴う責任を負うのは確かである。しかし、その義務の履行の方法や、それに伴う責任が奔放なものになると、他の人が自分の権利を満たしたい場合の障害となることが多い。従って、他の自然権の持ち主にも配慮して、自分の自然権を満たさなければならないという責任が憲法によって与えられる。これが、個人の自然権が制限される憲法の機能の1つである。



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