よくわかる法律入門 #9 憲法第14条について
法の下の平等 憲法第14条
憲法第14条「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」
先生「有名ですね。法の下の平等・・・。」
学生A「これはどういう意味なんでしょうか。法律は私たちを平等に扱うってこと?そのままですけど。」
先生「まあそうですね。例えば憲法10条で、国籍法について話しました。よくある差別の例として男女差別がありますが、あなたは男なので国籍変更してもいいよ。あなたは女なのでだめですよ。とか、あなたはお金持ちなのでしていいですよ。あなたは金持ってないからいけません。ということにはならないということですね。(お金持ちが国外に逃げるのはやめてほしいのが本当のところかもしれませんけど。)」
学生A「なるほど。」
先生「だけどね、男と女を常に平等に扱うと支障が出ますよね。例えば、女は赤ん坊を産むことができますが、男はできません。ですから、男に自己堕胎罪を適用する、なんていうこともできませんから。『妊娠中の女子が』と書かれています。そうした区別はつけてもいいのです。差別と区別は違います。」
学生B「そうですね。」
先生「江戸時代は、親藩、譜代、外様大名とか、そうやって同じ国の人でも、徳川家に近いか、関ヶ原の戦いで味方だったかどうかで、扱いを分けたりしていました。そういうのはやっちゃいけないんですよね。明治時代は、華族制度というのもありました。」
学生A「華族って、でも、いいなぁ~。煌びやかな感じで。」
先生「まぁ、想像の上ではいいかもしれませんが、それだと法の下の平等は達成されません。平安時代の貴族に興味を持つ人もいますね。
私の考えを言いますと、法の下の平等を理解するために、最も重要なことは、「差別」とは何かを明らかにすることですね。」
学生B「差別・・・。よく『差別するな!』っていう言葉聞きますけど、差別ってそもそも何なのかって言われると、答えられませんね。で、先生のことだからまた、何か極端なことを言われるのでは?」
先生「はい。私の考えだと、差別とは、「表面的な情報によって扱いを異にすること」を言います。例えば黒人差別がありますね。肌が黒いからダメ。というわけです。肌の色も表面的な情報ですよね。ぱっと見てわかる情報ですね。」
学生B「なるほど。確かに。それを言うならば、僕たちも日本人で、アジア人ですけど、アジア人は西洋の人から差別されていましたね。」
先生「そういう歴史はありますね。確かに、見た目は違います。彼らと比べると、目が細い人が多かったり、頬骨が浮き出ている人が多かったりしますね。モンゴロイドなので。ところがね、差別をする国というと、私の中では、イギリスがイメージとしてはよく持ち上がるのですが、同じ国のスコットランド人や、アイルランド人までも差別している歴史があるんですよ。じゃ、結局何なんだ…って思いますよね。イギリス人じゃなきゃダメ。っていう意味で、国籍によって扱いをわけているのでしょうか。」
学生B「国籍によってわける・・・か。確かに、国籍を肌に置き換えると、あなたの国籍は黒いからダメって言っているのと同じですね。」
先生「その通り。本当のところはどうなのかわかりませんが、イギリス人であるかどうかによって差別をしていた歴史があるのは確かでしょうね。差別とはこのように、表面的な情報によって扱いを分けることなのです。では、どうして差別っていう心が生まれてくるのか・・・なぜ人間は差別意識を持つのか・・・というのは、心理学、精神分析学とかに譲ります。
私たちも、差別される側に立ったことがあるわけですが、人のことは言えないんです。実際、わたしたちだって、日頃から差別しまくっているんですからね。」
学生A「なるほど・・・。え?私たちも差別しまくってる?」
先生「ええ。差別しまくってます。学生さんたちも、恐らく毎日差別していますよ。」
学生B「それは何ですか?」
先生「皆さんは、恋愛経験はお持ちですか?」
学生A「どきっ!何ですか。突然。」
先生「まぁ、深い話はいいとして、Aさんは美男子と、それほどでもない男の人、どちらがいいですか?」
学生A「それは当然、美男子です。」
先生「はい。それは差別です。」
学生A「えっ・・・。」
先生「恋にせよ、そうでないにせよ、外観のいい異性を気に入るっていうのは差別なんです。でも、たいていはAさんと同じ考えの女の子は多いわけでしょ?で、男も女もたいていはそうやって外観のいい異性に魅かれるわけだし、男性アイドルが大好きな女の子も多いわけです。何はともあれ、差別がないと、恋愛も成り立たないんですよ。ということは、黒人さんも、外見で相手を見初めているのだとすれば、差別をやめろと主張しているその黒人さん自体、しっかりと差別をしてしまっている、ということになります。」
学生B「そっか・・・。先生の理屈はほんと、容赦ないですね・・・。」
先生「私の差別の定義が、正確であることを前提とした場合の話ですけどね。よく、『外観で人を判断するな!』と言っているその気持ちはよくわかります。それは、差別されているのだからいい気持ちはしません。でもね、恋は盲目っていう言葉があるように、恋っていうのは、外観で判断しているからこそ成り立つんです。じゃないと、一目ぼれっていうのもあり得ないでしょう。逆に、人間臭いところを前面に出すと、つまり、中身を全て見せると、100年の恋もさ~っと醒めちゃうことがあるんですよ。
古典のお話で、修行中のお坊さんが、ある美しい女性に恋をしたお話なんですけどね。その女性は、自分の醜い姿をあえてそのお坊さんにさらけ出し、お坊さんの恋心を失わせた、ということがあります。そして、その作者はその女性を讃えた、という話ですね。」
学生B「う・・・。ヤなこと聞いたかも。」
先生「でしょうね。さらに、かなりきついことを言いますよ。自分が差別されそうになると、差別をするなと言い、でもやっぱり自分は人を差別してしまう。それが普通の人間であると思います。そして、差別をするなっていう人は、逆に言えば、そう言っている自分こそが、自分の内面を全てさらけ出さなきゃ、筋が通らないんですよ。そして、それを相手に要求する以上は、自分が外観で相手よりも有利に扱われるように行動することも、止めなければならない。社会的な地位や、財産の多寡、自分の外観や、資格などの能力を証明するもの、自分の地位など、そういったもので自分を他の人間と異なり、特別に扱うことを期待してはならないわけです。自分自身もそのように扱われることを拒否しなければ、人には偉そうに『差別するな』と言うことはできないのです。筋が通らないのですよ。」
学生A「先生、それは厳しいです…。筋が通らないって、なんか、極道みたいです。」
先生「極道・・・。でも、その通りだと思いませんか?」
学生B「恋は全て差別か・・・。僕だって綺麗な子や可愛い子が好きですよ。そりゃあね。でも、女って見る目がないんだよなぁ。顔ばっかりに魅かれやがって。」
学生A「どの口がいってるのかしら・・・。」
先生「差別するな・・・。と言う言葉は、言うのは簡単ですが、それを言う人間自体、差別をしているのが普通だということです。そして、本当に差別をやめたとしたら、極論、自分のプライバシーなんていうものも、全てなくなるでしょうね。だって、自分の全てをさらけ出さないと、正確に自分が評価されなくなってしまいますから。自分自身をそのまま見せない限り、差別はなくなりません。」
学生B「きっつ~。」
先生「私は個人的に、恋は人間の動物的な本能に由来するもので、自分の子孫を残そうとする欲求であると考えています。動物も恋をしますよね。で、動物が相手を選ぶときは、やっぱりぱっと見て、優れているな~って思う相手を選びます。ただ、それだとダメだっていう気持ちもあるということができます。鳥同士だと、体力があるとか、ダンスがうまいとか、泣き声がいいとか、巣作りがうまいとか・・・。外観だけじゃなく、能力に注目しているところがありますね。鳥は見た目がほとんど一緒だからかもしれませんが・・・。
人間もこういうところ、似てますよね。だから、自分の方が能力が上、っていう風に見せようとする人も多いわけです。それもやっぱり恋が差別であるからこそです。で、自分の悪いところは極力見せようとはしない。ま~それは、恋だけに限りませんけど。
恋では、自分が他の同性より、如何に差別されるのかが重要になってくるのです。恋と言うのは人間だけには限らない、動物的な営みなんです。だから、卑怯もくそもない、とにかくいい外観を見せれば、異性を獲得できる。逆に、邪魔なライバルには、悪いところが見えるようにさせたい。動物の世界は、人間の世界ほどどろどろしていないかもしれませんが、パッと見のイメージで相手を決定するところは、人間の世界もおなじなんですね。
人がそういう風に周りから見られたいのは、自分の立場がその社会の中で有利になるからです。そちらの方が、快適に、心地よく生きることができるようになります。
となると、生きたい、という心の欲望、すなわち性欲が強い人こそ、異性を獲得しやすいと言えそうです。性欲があまりないことを、草食系ということがあるようですけど。
自分の人生経験でいえば、恋のことになると、理屈が全く通らなくなる人間が多かったように思います。女が男を作り、男が女を作る。嫉妬によって、身体が思い通りに動かなくなる、というのもそれと同じことです。たいていの男女は、異性に認められるかどうかを自分の行動基準として選択します。それ以外の理屈は受け取らないように、脳の仕組みが作られているかのようでした。」
学生A「恋は差別・・・。確かに・・・。がっかり・・・。」
先生「これは恋に限った話ではなく、営業やマーケティングなどでもそうなんですよ。まず他より目立たないとお客さんの目に留まりませんからね。だから、外装なんかにもこだわるわけです。商売に差別は必須なのです。あえて客が悪いイメージを持つような外観にする、ということは考えにくいですね。」
学生A「そうですね・・・。いろいろな企業が差別化を図っていますよね。」
先生「ですね。大抵、お客さんは商品のことを詳しくは知りません。ですから、パッと見てよさそうだと思ったものを選ぶのです。サプリメントの紅麹の事件が起きましたが、実際に摂取してみなければ、結果がわからないのですよ。誰も危険だと思うものや、効力がないとわかっているものには手を出しません。また、どれだけいい商品も、人目に触れなければ買おうという気さえ起きません。逆に、それより劣悪に見える製品だとしても、目に触れたものの中でましだと思えば、購入されることがあるのです。こういう意味でいえば、商売は差別が重要なのです。そして、商品を購入者の目の届く範囲におくことを、広告といい、購買の意思を取り付けようとすることを営業といいますね。営業は広告も兼ねています。そして、そのような環境を整えることを集客というのでしょうか。これも営業や広告と一セットですね。これは、差別の最先端ですね。自分達の製品を、他の売り手よりも圧倒的に有利な立場に置くことができます。相手の目の前に自分達の商品を示すわけですからね。差別が無くなれば、全ての商品は、その機能も危険性も、そして、その他のライバル商品全ての情報も、完全開示しなければならないはずです。」
学生A「うん・・・。どれがいいかって言われると、私は可愛いのを選んじゃいます。先生・・・。恋と商売を一緒だといっているんじゃないですか?」
先生「そうですね。恋と商売は、共通点があります。自分が目に触れた者の中から、気に入った対象を選ぶ、という点でね。選挙も一緒です。具体的に何をやっているのかではなく、選挙カーで挨拶していれば選ばれるというのは、私の感覚から言えば変だなって思っています。(立候補だけして、全く挨拶をしない人がいたんですが、当然のように落ちていました。やっぱり重要なんですね。20人のうち2人しか落ちないような選挙だったんですけど。)
投票者が投票したくなるような目立ち方をすればいいのですから。買い物も、それを考えれば一つの選挙なんですよ。商品に投票しているようなものです。投票数が多い商品が生き残るのです。だから先ほど性欲が強い人が勝つ、と言ったわけで、自分に投票が集まるように行動するわけですね。
今の社会でも、差別は根深いというか、むしろ主流といっていいでしょう。差別を根絶する、というと聞こえはいいですが、実は差別がなければ私たち自身の存続も危ういのです。私たちは、皆、自分のために差別という言葉を便利に使っているだけなのですよ。」
学生B「最近はネット上の口コミとか、レビューとかで、どの商品がいいとか確認できるんじゃないですか?」
先生「確かに、レビューはその商品の内容を知るための重要な手掛かりになりますが、実際はサクラが多いと言われていますね。だから、今度はそのレビューまでもが差別の対象になりますね。」
先生「とまぁ、話が大分膨らんでいってしまいましたが、平等というのは、差別の意味の反対に受け取っておきましょう。つまり、『表面的な情報では扱いを分けません。』と言うことです。先ほど男女の性差に言及しました。女の人は子どもを産めますが、男は産むことができません。だから男に自己堕胎罪はありません。これは一見、法の下の不平等にも見えます。でも、表面的な情報ではなく、しっかりと男女の性差、つまり、自然の制約に基づいた扱いなのです。これは、平等なのですよ。」
学生B「なるほど・・・。確かにパッと見、違いを設けているように見えます。だから不平等なのかなっていう印象はありますね。でも、確かに、だからと言って男に自己堕胎罪を設けるのはおかしいですもんね。」
先生「はい。平等と言うのは何でもかんでも同じにする、と言う意味ではないんです。何でもかんでも同じにする場合を絶対的平等と呼びます。逆に、今言ったように、その物事の性質を勘案したうえで扱いを分けることがある、そのうえで平等にすることを、相対的平等と言います。で、法の下に、という限定がついているのは、やっぱり憲法をはじめとする法律の中に限った話だ、という限定ではあるわけです。だからね、恋愛の話をしましたが、あなたの顔は私の好みじゃないからね…と言って、相手との交際を断ったり、あなたの家庭には、(差別的な理由で)問題がありますからね~、と言ってお見合いや結婚を拒否するのは、法律上の差別には当たらないため、法の下の平等にも抵触しない、ということになるのです。だからああいうことは今も頻繁に起こっているのですよ。」
学生B「なるほど・・・。差別はいけないことだと聞いて長いですが、恋愛とかは選挙とか、商品は、完璧に差別主義が主流といっていいですよね。差別はいけないことだと言われ、差別は憲法では禁止されているのに、当然のように行われているのはこういう理由だったんですね。でも、憲法の役割は、国と個人の関係で、国自体の自然権を抑止したり、個人自体の自然権を抑止するのがその役割だから、私人間の恋愛関係での差別というのは、憲法から見れば関係がないわけですね。」
先生「はい。誰を気に入るか、結婚するか、というのは、これは私人間の問題であり、国と個人の関係ではないので、憲法は(基本的には)関係がないわけです。もちろん、憲法も場合によっては、個人⇔個人の間を調整することもあります。公共の福祉というのはそのためにありますし。
家庭を国だと考えれば、よくあるのが政略結婚ですね。個人が反発するのがよくあるオチですね。
今までは、私たちが満たしたい自然権があるとして、それを満たそうと思えば満たせる話ばかりしてきました。ところが、このように、恋愛となると事情が違います。相手がそれを受諾しなければ、満たすことができないわけですね。だからといって、国がその私人間に割って入って、お互い差別しないで相手を見なさいとは言えない。
何度も言いますが、憲法はこのように、私人間の間には入っていけない、というのが原則なのです。冷たいことを言うようですが、その人がふられても、日本の国民、つまり他の自然権者たちに何か悪影響があるかっていうと、特にないですからね。ふられると大地震や大洪水が起きる、と言う漫画の世界にあるようなことでもない限り、憲法で規定されることはないでしょうね。」
学生A「自分が好きだからって相手も好きとは限らないですからね。恋愛で差別はやったらダメ、と規定することはできないんですね。」
先生「そもそも、恋自体が差別ですから、差別を禁止したら、恋が無くなるんですよ。商売も差別が重要ですから、差別を禁止しちゃうと、商売も成り立たなくなる。あるいは、かなり融通が利かなくなるでしょうね。金の動きが止まる・・・。で、選挙だって、外観を非常に重視していますよね。社会は差別の力で成り立っていると言ってもいいくらいです。
でもね、法の下では、こうした差別を設けません、と言っているのです。あなたは不細工だから死刑、あなたは美形だから無罪にする、とか、誰かがやりそうな、そういうことはルールにはしない。」
学生A「なるほど・・・。」
先生「私たち自然人は、お互いの自然権を共に満たし合いたいわけですね。だから、恋愛をすると、当然お互いの気持ちが満たされることを望むものです。そして、満たされているうちはいいのですが、いざ満たされない状態が出てくると、色々と問題が起きるのですよ。仕方がないと思ってあきらめる自然人もいれば、絶対にあきらめないと言ってストーカーへと変貌する自然人もいたりするわけです。もっとひどい時には、殺人事件にまで発展する、というのは、テレビなどでもよく報道されていますよね。」
学生B「ええ。そうですね。男女の痴情のもつれですね。好きなのに殺しちゃうんだから、不思議だよな。」
先生「そうですね。これは法律の話では語れません。心理学、精神分析学、犯罪心理学など、そうした分野を将来学べば、分かってくると思います。」
学生A「難しい・・・でも、この調子でいけばいつかは・・・。」
先生「恋とは差別だった・・・。というように、知識や真実の獲得は、胸に痛い問題であることもあります。知識の欠如や真実を知らない状態を馬鹿な状態だとすれば、馬鹿でいられる方が幸せですね。」
学生A「先生・・・。その発言はちょっとどうかと思います。」
先生「そうですか?馬鹿とは悪口じゃないのですよ。馬鹿と言えば、先生も馬鹿です。詳しくは話せませんが、馬鹿とは、物事を正確にとらえていない、と言う状態を言います。こんな人間、地球上のいたるところにいますよ。恋は差別だった、というのは、私はその通りだと思っています。(もちろん、そうじゃないかもしれませんよ?)ですから、その点において、私は馬鹿ではないのだと思います。しかし、私にはまだまだ知らないことがたくさんありますし、取り違えていることが山ほどあるでしょう。そして、物事の本質をとらえきれていないことも山ほどあります。そのずれが修正され、新しい真実を知った時、また大きなショックを受けることもあるでしょう。そういう意味です。
人は普通、馬鹿と言われると、自分自身の能力の低さや、人格全てを見下げられたように感じるかもしれません。馬鹿というのは、常識的には悪口の代表ですからね。だけど、馬鹿というのは、個別具体的に、物事のありのままを捉えることができないことを言うのだ、と私は考えています。馬鹿だな、と言っている人間も、たいていは馬鹿なことが多いのです。
だから、アインシュタインでさえ、馬鹿な部分は馬鹿なのです。彼はブラックホールの存在を言い当て、見事にその存在は証明されました。相対性理論も提唱しました。ということは、ブラックホールが存在している、とか、相対性理論(時間でさえも絶対的に1秒ではないとか)という点においては、アインシュタインは馬鹿じゃなかった、ということにはなりますね。(ほかにもわたしたちよりも馬鹿ではない部分は、多くあるでしょう。)1秒はどこだって1秒だ、とか考えていた彼以外の全ての人は、その点において、馬鹿だったのです。」
学生A「なるほど・・・。そうなんですね。」
先生「ところで、社会的身分や、門地とか、差別の類型が憲法の条文で上げらえていますが、これは限定列挙か例示列挙かで説が別れていると言われています。」
学生B「限定列挙?」
先生「はい。限定列挙の場合は、限定ですからね。ここに列挙されていないことについては、法による差別はしてもいい、という解釈が成り立ちます。」
学生B「なるほど。」
先生「ですが、この考えは私はおかしいと思います。憲法がそもそも作られた趣旨を考えるとね。それに、状況の変化や、技術の進歩に伴って、人間にできることが広がれば、新しい差別もまた増えると思います。例えば、コロナウイルスが蔓延したとき、コロナ差別と言うのが起きましたね。だからといって、あなたはコロナにかかったから死刑。コロナにかかっていないなら無罪、なんていうことにはならないでしょうし。つまり、病歴による差別とかね。
限定列挙なら、コロナにかかったかどうかによって差別してもいいということになります。病歴による差別は14条に列挙されていませんから。」
学生B「なるほど・・・。」
先生「私が個人的に、これは差別じゃないのか?と思うことですが、年齢による差別は、行われているのではないか、ということですね。」
学生A「年齢による差別?」
先生「はい。微妙なところなんですが、18歳未満だからダメ。というのは、ちょっと表面的すぎる気がするんですよね。年齢によって相手を判断するのも、私は差別だと思います。で、若い人の意見が通らない、というのは、社会ではよくあることですからね。若者差別っていうのは、結構多いんですよ。今のお年寄りも、最近の若者はダメだ。という頭を持っている人は多いようです。私も自分の考えは20歳くらいの時には出来上がっていましたが、若いってだけでダメですね。他には、学生だからダメ、とかね。私の言っていること信用されないのは、あなたは専門家じゃないからだ、とかね。」
学生B「あるでしょうね。」
先生「婚姻については、近年LGBTQと言われる、性的マイノリティの方達がメディアで目立ってくるようになりました。そのため、婚姻について、両性の本質的平等という言葉にも、疑問が提示されてきましたね。
生物学上の男性同士で結婚する自由は、自然権からすれば十分認められるわけです。しかし、憲法は生物学上の男性と女性との間でのみ、婚姻を認めているかのような記述なのですね。これには一応国側の考えがあるのです。ですが、LGBTQの人たちのことを、まるで無視しているかのような規定に見える。となれば、法の下の平等に違反する、という可能性も十分あるわけですね。」
学生A「性的マイノリティの人たち。よくテレビで見ますね。」
先生「私も恥ずかしながら、性は、男と女しかないのだと思っていました。ずっと。これも、今までの状態とは違った事情が生じてきたということですし、多分憲法からしてもそうなのではないでしょうか。
ですが今では、私は、性とは無数にあるのではないか…と思っています。2つと決めつけるのは、驕りだったのだと。」
学生B「え!無数にある?!」
先生「はい。ですが、ここでは性についてお話することはできませんけどね。」
先生「ところで、法律は立法府である議会によって作成されます。そこで、法律を作る段階で不平等がある場合(法内容の平等)と、作られた法律が適用される段階で不平等がある場合(法適用の平等)があると分かれていますが、どちらも平等でなければならないでしょうね。」
学生「それって、法学部で学ぶ話ですか?」
先生「はい。そうですね。ですが、この本は学説がどうのこうのという話には極力入っていきません。基本を理解し、自分で条文を読み、考える力を付けることが目的です。」
学生B「はい。」
先生「私は、差別をしない⇔平等という形でとらえてきました。
平等というもの自体に言及する考えがあります。これはおそらく、「経済的又は社会的関係において、差別されない。」の、「経済的」というところに引っ掛けた話だとは思いますけど。法律が公平に適用されることによって、資本主義社会ではかえって不平等になってしまったと考える人がいるのです。そこで、形式的な平等ではなく、国家が経済的に弱い個人を保護していくという、実質的な平等を実現するという話があります。」
学生A「ああ、聞いたことがあります。資本主義の仕組みで・・・。でも、さっきは相対的な平等と絶対的な平等。今回は形式的な平等と実質的な平等ですか?」
先生「そうです。ややこしいですよね。今までの話とは違い、これは経済的不公平を話題にしたものです。私はこれは、経済の仕組みによるものの結果なのであって、法律自体が不公平だとか、公平だとかによるものではない…という気もしています。この人たちが言いたいことは、資本主義経済の下で私人が取引を行っていった結果、富めるものはより富めるようになっていき、貧しいものはより貧しくなっていった。それにもかかわらず、法律は平等に適用されてきやがる・・・。そうなると、逆に法律が不公平に適用されているのと同じだ・・・ということなのでしょうね。」
学生B「つまり、法律の公平性は、貧富の差によって、不公平にもなりうるということ?」
先生「私は、そこが問題とされているのではないかと思います。だから、この貧しい人を国家が経済的に補助していく、実質的平等にするという考えが出てくるのです。でも、やっぱり思った通りですね。憲法14条から貧富の差を無くす権利は当然には導き出せないと言われていますからね。もちろん自然権を基本とすれば、何でもやっていいわけですから、貧富の差があまりにも広がると、それを直せと要求する権利もあるわけです。しかし、そのようにはなっていない。経済は、国が関与しない私人と私人の間の取引だから、というのが大きな理由でしょう。
法のせいで貧富の差がうまれたのであれば、法が責任をとらなければならないでしょうし、法を変えれば原因はなくなるはず。でも、法自体には原因がないと思いますね。それに、経済状態でいちいち法律の適用を変えてたら、それこそ法が大変動を起こしますよ。
私は法律にはそもそも責任がないんじゃないかと思っています。経済が自由に行われた結果、収益力を持つものに皆がお金を投資し始め、結果として不平等になった、というだけのことだと思うんですよね。
貧富の差それ自体は、経済の仕組みによるものであって、それが生まれたこと自体は、法の平等・不平等は、そこまで関係がないのではないか…という気がしています。」
学生B「難しいですね。」
先生「はい。私として14条で間違いがない解釈だと思うのは、少なくとも法の下では、人を差別しない、それが平等だ・・・ということ。この条文はそれを言っているのだと解釈しています。
そして、最後に言ったのは、貧富の差が産まれたことによって、法を公平に適用すると、却って不公平になることが、法の下の平等に違反しているのではないか・・・という問題意識があるわけですね。でもこれは法のせいじゃないと思う。」
学生B「なるほど・・・。難しいなぁ。」
先生「そうですね。私もここは混乱してしまいます。何か、法律が直接関係して不平等が生まれた事情があるのかな?・・・。だから、先ほども言ったのですが、経済の仕組みによって不平等が生じるのは、法のせいではないと思うんですよね。そりゃ、その不平等を是正するために、法律にもできることはありますよ?だからといって、法律がきっかけ、トリガーになったのはどうしてなのか、ちょっとよくわからないんです。ま、それならそれで、その法律を公平になるように変えれば済むでしょうけど・・・。」
学生B「そうですね・・・。」
この章のまとめ
法の下の平等は、法律が差別せず、平等に扱うことを規定する。差別とは、表面的な情報により扱いを異にする、と言う意味である。
例えばあなたは不細工だから死刑。あなたは美形だから無罪、と言うことはしない。逆に同性だと、美形だから死刑、不細工だから許す、ということもあり、これも差別である。
平等は、絶対的な平等ではなく、相対的な平等である。例えば、男性は子供を産めないので、自己堕胎罪の規定はない。
憲法14条の、社会的身分、信条、門地などの列挙は、限定列挙か、例示列挙かで争いがあるが、例示列挙であるとみるべき。社会の変動に応じて、差別は新しく生まれる。限定列挙だとそれに対応できない。
資本主義経済の下、貧富の差が広がり、経済的な不平等が蔓延した。ここに法律を公平に適用していくと、却って不公平になってしまう。だからといって、憲法14条を根拠に、国に平等にするよう求める権利が当然のように認められるわけではないようだ。経済の変動で法律の適用解釈が変化すると、それは結局法の安定を損なうことになる。不公平が生まれたのは、そもそも法律のせいだとはおもえない。(法律のせいでこうなったのであれば、その根拠となる法律がなんだったのかまだわからない。)
つまり、法の下の平等なのだから、経済の主義によって不平等が生まれても、法は原則として関知しない。
法の下の平等は、あくまでも法の下の平等であって、事実の平等ではない。だから、私たちは日頃から差別をしまくっている。美形な人を優遇したり、専門的な資格を持っているかどうか、地位が高いかどうか、年が上か下か、金持ちか貧乏か、男か女か、アジア系か西欧系か、肌の色は白か黒か黄色か、そういった表面的な情報で扱いを異にすることがある。だからといって、法の下の平等に違反しているわけじゃない。
商買や選挙なども、差別をふんだんに利用している。差別がなければ私たちの今の社会は成り立たないのだ。
仮に事実の平等が徹底されると、全ての人間は全く同じ人間にならなければならなくなり、個性が失われる。全ては同じ顔になり、同じ背の高さになり、同じ筋肉量になり、同じ性になり、同じ知的レベルになり、同じ人種になり、同じ・・・となっていく。つまり、遺伝子レベルで全く同じ存在にならなければならない。逆に言えば、そうでもない限り、差別の心が失われることはないだろう。