よくわかる法律入門 #8 コラム 幸福追求権を深掘りする 人格の意味
コラム 人格の意味
さきほど話題になった幸福追求権については、いろいろな学説があります。著者は、自然権と幸福追求権は一緒だ、という立場で解説しています。自然権は結局、個人が自分の精神の欲動に従って、その行使を行うかどうかを決めるわけであり、それこそが幸福追求権の発動でもあるわけです。
一方で、国を主体として考えてみます。国が国民の意思や反対を無視して自分達の都合のいいように行動することがよくあります。それは、国を運営している人たちからすれば、それが彼らの自然権の行使であり、また、そのように行動することがその運営者たちにとって、幸せを感じることなのです。
自分が不幸になるように権利を行使する、というのは、国側も個人側も、考えにくいのです。(ドラマで国側の内部を描いたものがあります。道義的なことばかりは行えない苦労がうかがえますね。道義に違反することでも、それが国民のためになるならばと、苦痛を感じながらも権利を行使する、ということもあるでしょう。そして、それに対して反対が起こるということもあるでしょう。つまり、自己犠牲的な行動を起こすことは、国側にも個人側にもあります。それが、その人達にとっての幸福追求の権利とは言えませんが、自然権の一部ではあります。)
学説によっては、幸福追求権を、『個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体』と言っています。
じゃあ、そもそも『人格』って何なのか。そして、人格的生存というのもどういうことか。不可欠の利益って、その範囲はどんなものなのか?これだけでは、よくわからないのです。やっぱりこれも、何も言っていないのと同じだと思うんですよね。結局は、裁判官等の胸三寸で判断しま~っすってことになりそうです。しかし、もう少し深掘りしていくと、この解釈は非常に鋭いと私は考えるに至りました。もう少し読んでみてください。
著者の考えでは、人格とは個人として確立していること。つまり、よくわかる法律入門2で語ったように、自然権利と自然義務があり、そして自然責任を負いながらも、それらを自分の計算で満たし、履行し、背負っていく。そうした独立した存在である一個の人間であり、肉体的・精神的にそのような状態にある存在、と考えています。そして、責任については、周りの自然権保持者に配慮し、権利を濫用せぬよう、公共の福祉を考えて権利を満たすように、自身の人格を発展させていく。
たとえ話をすると、このような感じです。生まれたばかりの人格が、種の形をしている。そこから芽が出て、伸びていく。権利の濫用をしないように、公共の福祉に配慮するように、という網が張られている。私たちの人格の芽は、その網に絡まり伸びていく。時に自分自身で制限を加え、より道義的になり、より自己犠牲的な網の目を取り付け、人格をその形へ成長させていく。いい芽があれば、悪い芽も成長してくる。成長というといいことばかりに考えがちだが、人は悪い成長も起こすのが普通である。その悪い成長を自分で認め、自分で制御する。そうして、自分を発達させていく。結果として出来上がった人間の状態。それが人間の格なのであると思います。
無法図に育った人間は、制限を持ちません。悪い芽も伸び放題。ボーボーに生えて、荒れ果てた伸び方をします。やがて悪い芽がいい芽の栄養までも取りつくし、他の芽が生えている場所にまで浸食し、他の芽の栄養までをも吸い取り始め、さらに悪い部分を助長させていきます。
家庭や、学校、会社や国が、この制限に、自分達にとっての都合のいい網をかけてくることもあります。このことに批判的だと、儒教色の強い日本とかだと、ちょっと白い目で見られますね。
そして、これこそが理想的な人格だ!というのは、実は誰にもわからない。結局それは、周りの人たちから見て、気に入る人格であるかどうかで決まってしまうのです。だから、野放図に伸びた人格も、人格だし、綺麗に整えられた人格も、やっぱり人格です。人格には良いも悪いも本当はありません。ですが、周りの人間にとって、そうあってほしいな、と思われるような人格が、いい人格とされています。そして、そうなるように制限をかけようとしてくる、ということにもなるわけです。
『個人の人格的生存』と言いますが、その人格がどのように育ってしまったにしても、それは個人の人格的生存になります。そして、そのために『必要な不可欠の利益』と言ってしまうと、野放図に育った人格にとっても、その人格にとっての不可欠な利益を追求する権利を持つ、ということになってしまうのではないかなと・・・。(それはやめてほしいなと。)
だから、私としては、こんなに難しく考える必要はないと思いました。結局幸福追求の権利は、自然権の中の1つである。でも、あえてそれを積極的に定義するならば、何でもやっていい権利のうち、自分が幸せを感じたいなと思って実行する権利のことだと。ただそれだけです。(自分を犠牲にするように行動する自然権の行使も、やっぱり自然権の行使です。それだと、その個人は不幸になります。でも、それがその人の決めたことなら仕方がないですし、それがこの人の人格的な生存に不可欠だと言うこともあり得ます。)
私はそう思っていたのですが、さらに突き詰めてみましょう。『幸福』とは何か。という問題になります。私の今のスタンスでいえば、幸福とは、母親の胎内に回帰することだと考えています。
例えば、皆さんが住んでいる家が母胎です。そして、自動的に臍の緒から栄養が送られてくる。これが例えば、自動化された収益です。部屋にはエアコンが完備され、暑さも寒さも感じません。とっても居心地がいいです。自分の生理欲求、食欲、性欲を満たせる環境が整っており、自分が手を煩わせなくても、全て満たされるようになっています。周りには自分の気に入らない人間は一人もいません。自分の気に入った人間だけがいます。そういう状態になることが、幸福なのです。
不幸の形は人それぞれ。でも、幸せの形は皆同じ。と言われるのはこのためです。
幸福になりたいと思う気持ちは皆一緒です。でも、私個人でいえば、幸せになってしまうと、人間は終わりだな・・・と思っています。それは胎児と大して変わらない存在だからです。
だから、幸せになることが人格にとって、いいとも思えません。幸せは人を傲慢にさせることもあり、退化させることもあり、怠惰にさせることもありますし、その立場に立った自分を守りに入らせ、自己保存本能を強力にし、そこから出そうとする動き全てに攻撃的な態度を取り始める、という状態に人間を変化させてしまうこともあるわけです。
腐った国は大体こんな感じですよね。
これが人格と言えるか?というと、私は言えないと思います。
ですが、幸せになりたいと思う気持ちは、私たちが行動するエネルギーになることは確かですし、それを利用することで、私たちは自分達の人生を歩いていくことができます。すなわち、幸福追求の権利は、自分の人格的な生存を行うための精神的なエネルギー。すなわち、芽にとっては、土であり、水であり、酸素である、つまり、栄養である、ということが出来ます。これが無ければ、そもそも人格は発展できないのではないでしょうか。
だから『自己の人格的生存に必要不可欠な利益』という解釈は、慧眼ではないかな・・・と私は思います。
私がこの言葉を言い換えるならば、個人が生きていくうえでの、精神的なエネルギーを確保する権利だ・・・ということになります。
絶望した人間は、前に進むことをやめてしまいます。自暴自棄になり、自己破壊的になることが多いわけです。精神的なエネルギーを確保すること。それは、人間が自分の道を進んでいくための、必要不可欠なものでしょう。
人はそういう意味では弱いです。マイク・タイソンでさえ、精神的エネルギーが確保されなければ、自暴自棄になるのですから。
例えば、人格権でいえば、自己決定権という権利があります。エホバの証人の信者は、輸血をしてはいけません。ですが、病院はエホバの証人の命を救おうとして、輸血をしました。これが、その本人にとって、激しい苦痛を感じさせました。ここでも、その人が生きていくための精神的なエネルギーが損なわれてしまった・・・と考えることができます。
結局、何とでも言えるような気もしないではないのですが、その人が、一体何によって、自分の精神的エネルギーを確保し、自分の人生を歩んでいくことができるか・・・。その推進力を確保できることが、幸福追求の権利として、自然権とは別に、特別に規定された意味なのであると私は考えます。
自然権のままだと、野放図な芽が育つのもOKです。幸福追求の権利も、幸せであればいいので、自然権と同じです。そこに公共の福祉や、権利の濫用ダメよ・・・という制限。個人の道徳的な思いなどが加わり、人格として形成されて行きます。しかし、幸福追求の権利は、自然権の中でも、自分の精神的エネルギーを確保する権利だと言い換える事が出来ます。これがあるから、人は前を見て歩いていくことができます。
さて、これくらいにしておきます。最後になりましたが、筆者としては、人格を理解するには、何よりもまず、『人間とは何か?』が明らかにされるべきであるとも考えています。
ちょっと長かったですし、難しい話でした。
まとめ
幸福追求の権利は、自然権と大して変わらない。自然権は、結局人間の精神的な欲動によって行使されることが決定され、それを満たそうとすることだから、幸福を追求する権利だと言える。
しかし、あえて幸福追求の権利が特別に規定されているのはどうしてなのだろう・・・という疑問は持ち上がる。
そもそも幸福とは何か。それは、母親の胎内にいた時同じような状態に、個人が回帰する状態になること。
人は誰もがその場所を目指し、精神的なエネルギーを確保して生きている。
逆に、それが無ければ一気に精神的なエネルギーを失い、自分の体に力が入らなくなる。(自分の望む女性が手に入らないと思い力を完全に落とす男のように・・・。あるいはその逆に女のように。)
母胎とは個人の目標であるともいえる。そこにたどり着こうとして、人は精神的な活力を持つに至る。
もしこれが奪われてしまうと、人は自分自身の人生を歩むためのエネルギー自体が枯渇してしまう。だから、人格を発展させることも難しくなる。
それは、人格という芽にとっては、土であり、酸素であり、水であるからだ。エネルギーがないと、その人間は枯れてしまう。
とすれば、国側が、個人の人格を発展させるための精神的エネルギーを確保できなくなるような行為は、極力行わないようにするべきだ・・・という考えが出来上がる。
したがって、幸福追求の権利は、『個人の人格的生存に必要不可欠な利益』を確保する権利だ・・・ということができるのである。
以上で論証を終える。