国体の東京選抜代表
高校バレーボールの三大全国大会の1つ「国体(国民体育大会)」、コロナ禍により大会中止もありましたが、今後はまた開催されるそうです。
今回はバレーボールのトレーナー的な内容ではなく、個人的な過去のバレーボール人生について書かせて頂きます。
もう数十年前のことでしょうか・・・(笑)
私の高校時代のお話しです。
当時のバレーボールのルールは、レシーブ専門のリベロのポジションが導入される前で、また現在の25点ラリーポイント制ルールではなく、15点のサーブ権ありのサイドアウト制でした(接戦時は試合時間が長かった)。
私は中学生からバレーボールを始め、中学3年生の春に現在の「JOCジュニアオリンピックカップ 全国都道府県対抗中学バレーボール大会(毎年12月下旬に開催)」の東京選抜代表の24名(最終12名)に選出されました。
ところが、夏の大会で結果が出せず、東京選抜代表の最終12名に残ることができませんでした。
今でもはっきり覚えていますが、この落選がきっかけで本気で高校でバレーボールをすると決意しました。
そして、目標は「高校で東京選抜代表に選出されること❗」でした。
この目標は、今だに誰にも話していません(笑)
私が忘れて話ししているだけかもしれませんが・・・😅
つまり、当時の高校バレー最後の公式戦「国体(国民体育大会)」に出場することにです。
東京のあるバレーボール強豪高校にお声を頂き進学しました。
色々ありましたが、厳しい練習を耐えて乗り越えて、チームは高校1年生の秋~高校3年生の春まで東京都の大会(公式戦)で実績を上げていきました。
さらに、高校3年生の夏のインターハイ東京都予選兼国体選抜選考は苦戦を強いられましたが、チームは実績を上げました。
そして、念願の国体(国民体育大会)の東京選抜代表12名に選出されました❗
ちなみに当時の選出された東京選抜代表は、東亜学園・東海大菅生・安田学園・早実(早稲田実業)・東洋の優秀選手で構成されたチームでした。
当時の国体は、本選出場するために関東ブロック大会で優勝しなければなりません。
私は、現在でいうウィングスパイカー(レフト)のポジションで東京選抜チームに出場させて頂きました。
関東ブロック大会は、1回戦は茨城選抜チームにフルセットで勝利し、2回戦(ベスト4)は山梨選抜チームにストレートで敗退し、本選出場とはならず、高校バレーボールの最後の公式戦を終えました。
高校でのバレーボールは、目標を達成したので私は悔いは全くありませんでした。
その後のバレーボール人生は、高校で目標を達成したせいか、現在でいうバーンアウト(燃え尽き症候群)になり、バレーボール推薦で大学に入りましたが、半年で中退し、遊びでのバレーボールを続けていました。
今となれば、いい思い出です✨
そして、現在の鍼灸整骨院での仕事に出会い、鍼灸師・柔道整復師の資格を取り、自営業(鍼灸整骨院)をしながら、今もこうしてバレーボールのアスレティックトレーナーとして、バレーボールに携わることができているのは、本当に運命なのかもしれません。
今はバレーボールのプレーはできませんが、身体のことならお任せください。
以上です。
最後までお読みいただきありがとうございます。