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「幸せ」を定義するのは「私」

 近年急速に、障がいのある方の意思決定支援の重要性が高まってきている。当たり前と言えば当たり前なのだが、同時に色々と考えさせられることもある。

厚労省資料より抜粋

 例えば、今年行われた障がい福祉サービスにかかる報酬改定では、「担当者会議・個別支援会議について、利用者本人が参加するものとし、当該利用者の生活に対する意向等を改めて確認する」ということが明記された。

 また、神奈川県では、独自に神奈川県当事者目線の福祉推進条例というものを制定し、より一層本人主体の意思決定の支援に力を入れている。

 私は日頃TRYFULL(トライフル)という支援機関で、主に知的障がいや発達障がいのある方の支援を行なっている。重度の知的障がいのある方の支援に携わりながら得たある確信は、どんなに重度の障がいをもつ方も、確実に意思を持ち、ご自身なりの判断や意思決定を行なっているということだ。例えば、重度の知的障がいのあるAさんには、お気に入りの入浴剤があり、選択肢を提示されれば、自分の意思で選ぶことができる。また、同じく重度の知的障がいのあるBさんは、音声言語での表出はないが、代替え手段を用いれば自分の意思を伝えることができる。先日も、文字盤アプリを用いて、「ぼくは 日曜日 ガストに 行きたい」と要求したりしていた。一見ご本人に意思があるとは思えないような時もあるが、確実に意思があると感じさせてくれるのが興味深い。

 しかし、どんなに重度の知的障がいのある方も意思があるとは思いつつ、彼らの下す判断が常に正しいとは限らないと感じる時も多々ある。また、意思決定支援ということを盾に、無条件に彼らの言うことを全てそのまま叶えることがいい支援と言えるのだろうか。日々考えさせられるシーンも多いのが現状だ。

 みなさんは日頃、このようなジレンマを感じることはないだろうか?

 彼らにとって「望む生活」、「幸せ」ってなんだろうか?実際にはそれを聞き取ることすら、かなり熟練された技術が求められる難しいことだと感じる。

 こういう時に私は、佐々木正美先生のセミナーを受けた際に、ASD当事者であるテンプルグランディンさんの紹介していた言葉を思い出す。

「幸せという感覚がよく分からないので、ホットケーキを食べている時を思い浮かべて、それが幸せという感覚なのだと思うようにしている」

テンプルグランディン(佐々木正美先生のセミナーより)

 ASD当事者で大学教授のテンプルグランディンさんであっても、明確な幸せについてはよくわからないと言っている。ポイントは、それっぽいシチュエーションを具体的に浮かべて、これが「私にとっての幸せ」と定義する必要があると示唆していることだ。現場で直接支援をしている私にとって、これはとってもピンとくる。つまり、私が支援している方の多くは、このテンプルグランティンさんと同じように、「これが幸せだ」と明確な定義を持っていないと感じるということだ。そして、このことは意思決定支援を考える際に、とても重要な意味を持っていると考えている。

 意思決定支援では、本人の参加保障と、意思決定の機会を提供している。これはとても大事なことだと思う。一方で、考えるための判断材料と方法を持たずに、「どうしたい?」と質問されても答えようがないと思う。であるならば、形式的な機会を持つということに加えて、きちんとご本人が判断できる形で判断材料を提示することであったり、ご本人の最善の判断を下すための協議する方法もルール化しておくことが重要だと私は考える。冒頭の「担当者会議・個別支援会議について、利用者本人が参加するものとし、当該利用者の生活に対する意向等を改めて確認する」というのはそういう意味なんだろうなと思いつつ、それを実際にどう現場で実現していくか、は、まだ現場では確立されておらず、私自身も試行錯誤しながら障がいのある方の意思決定支援の方法論について、今後も探究していきたいと思う。トライフルではポートフォリオというツールを軸に意思決定支援の方法論について実践を重ねている。

 大切なことは、誰のためではなく「幸せ」は「私」のためのもので、一人ひとりに応じて「定義する」ことから始まり、支援者はまずそのサポートに徹することが重要ということだ。意思決定支援のポイントは、①会議の時に行う重大な決断を支援することだけでなく、②日頃の生活の中で具体的に、ご本人にとっての幸せを、ご本人の言葉で整理し、記録する支援のことを指すと私は考えている。

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