長編小説【三寒死温】Vol.5
第一話 人探しの得意な探偵
【第四章】命あっての物種
それが「再開」なのか「闇」なのかは分からない。でも、川待ちの宿場跡のあたりから渡し舟が出ているという噂は本当らしい。
そんな眉唾な話が流れ込んで来たのは、聞こえる音といえばもう虫の声くらいしかない夜更け過ぎのことだった。
日中はまだまだ暑いけれど、陽が傾くとそれに比例するかのように気温も一気に落ちてゆく。この夜は普段にも増して肌寒さを感じた。
「本当に、待たないでいいの?」
誰かが呟くように発した声が聞こえたけれど、声の主の顔は見えない。
かなりあどけないその声色から、おおよその見当はつくけれど、はっきりとは分からない。
天井に吊るされた小さな裸電球一つが灯す、ぶらぶらと揺れるような微かな光の中では、自分の手元を見ることすら覚束ない。尋常小の中庭にあった鶏小屋を彷彿させる埃っぽい部屋の真ん中だけがぼんやりと明るく、まるで宙に浮いているように見える。
終戦直後のバラックからようやく脱出できたと一息吐いたのも束の間。
今度は台風による大雨で住む家を流され、とてもではないが人の暮らす家とは思えないような掘っ立て小屋に、私たちは身を寄せ合っていた。
「もう一年以上経つのに、いまさら帰ってくる希望なんてないわ。ありもしない希望をいつまでも夢見るような、そんな歳でもないしね。」
三十路を過ぎて二度目の未亡人になるなんて、小さい頃は想像なんてしていなかった。小さい頃どころか、最初の夫を失った時だって、同じ経験をもう一度するとは思いも寄らなかった。
それでも今回は、一度目ほどの大きな衝撃は受けていないように感じる。もちろん二度目という(あまり誇れたものではない)経験値もあるのだろうが、それよりも何よりも、私の周りに似たような境遇の年端もいかない娘たちが大勢いたことが大きい。
大勢も大勢、かなりの大勢だ。
明らかに私がこの中では最も年上なのだが、そのせいか、いつの間にかグループのリーダーのような役回りに担ぎ上げられてしまっていた。
「菊枝姉さん、強がってない?」
少しだけからかうような雰囲気を声にまとわせながら、別の誰かが言った。もちろん、そんな声の主の顔も見ることはできない。
こんな斜に構えたようなことを言う人間なんて何人もいないのだから容易に想像が付くけれど、はっきりとは分からない。
「もちろん、強がっているわよ。でも、強がらないで生きていける方法があったら、教えて欲しいわ。強がらないで娘を養っていける方法があるのならね。」
「ごめん。悪気はないの。そう言い切れる姉さんが格好良すぎて、ちょっと意地悪なことを言いたくなっちゃっただけ。あたしも一緒に行くわ。」
「本当に行くの?」
あどけない声の主が、消え入るような声でもう一度、囁いた。
それからしばらくの間、無言が続いた。
鈴虫だか松虫だか分からないけれど、小屋の外で佇む虫たちの翅を擦り上げる音が、必要以上に耳についた。
今宵、この場所には少なくとも10人ほどが身を寄せているはずなのに、あどけない声の彼女の後を継いで口を開く者は誰もいない。次第に、長いため息の漏れる音や、小さくすすり泣くような声が、いくつか聞こえてくるようになった。
無理もない。
ここに集まっているほとんどの娘たちが、まだ二十歳前後のうら若き乙女なのだ。私もかつて経験したことなのでよく分かるけれど、その年齢で生涯を約束した伴侶を失うというのは、本当に耐え難いことだった。
私が最初の主人を失った直後は、姻族関係を解いて旧姓に戻ってからも間違って夫の姓で呼ばれることがあり、その度に陰で涙を流していた。
そういえば、再婚して娘ができてからも、何度か間違えられたことがあったっけ。言葉のやり取りが少しずつ分かるようになってきた娘に、「どうしておかあちゃんはたかい(私の最初の夫の姓は『高井』といった)の?」と聞かれたこともあった。「たかいたかいがじょうずだから?」と。
その上、彼女たちは親兄弟姉妹までも失っているのだ。
例えほとんどの娘が、大して相手のことも知らず、出征が近づいたために半ば強引に祝言を挙げさせられたような見合い結婚であったとしても、そう簡単に諦めなどつくわけがない。なかなか立ち直れるものではない。当時の私など、比べ物になるはずもない。
先ほどからあどけない声で囁いている彼女の相手は、確か親同士の決めた許嫁だったはずだ。遠い場所に住んでいて、いまだ写真でしか見たことがないと言っていた覚えがある。
私と同じで、彼女の元にも戦死の公報はまだ届いていない。
「さすがに今回は、みんなで頑張りましょうとは言えない。行きたい人だけで、行きましょう。」
沈黙に耐え切れず発した私のそんな言葉に、みんなますます、どうすればいいのか分からなくなってしまったようだ。薄闇に紛れて表情が見えなくても、鬱々と悩んでいる様子は手に取るように分かった。
それも当然だろう。今の今まで、これほど重要なことを自分ひとりで決断したことなど一度もないのだから。
小さい頃は年長者の言う事を聞くのが当たり前だし、結婚は家長が決めるのも当たり前だし、嫁いだら旦那の三歩後ろをついて歩くのが当たり前。自分で自分の行動を決めるなどという機会は、これまでの人生でほとんどなかったに違いない。
でも、もう誰も何も決めてはくれない。だって、決めてくれるべき親も旦那もいないのだから。頼れる者は誰もいないのだから。
いっそ私が「みんなで行きましょう!」といつものように発破を掛けることができたなら、きっとみんな楽になるのだろう。私もそうしてあげられるのなら、そうしてあげたい。これまでだって、みんなでやれば何とかなると言い続けて、ここまで生き延びてきたのだ。
実際のところ、私のそんな言葉には何一つ保証も確証もなかったけれど、これまではどうにかなってきた。
けれど、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
私一人で責任を負うことはできない。
私の一存で、他人に一か八かの賽を投げさせるわけにはいかない。
「命あっての物種、ですよね。」
静寂を切り裂いて、誰かが口を開いた。
あどけない声の娘でもなければ、からかうような物言いをする娘でもない。かなり滑舌の良い、どちらかといえば溌溂とした印象を与える声の持ち主だった。
誰だろう? 声を聞いただけでは、それが誰なのか判断できなかった。
最近になってから、私たちと行動を共にするようになった娘のうちの誰かだろうか? いや、そもそもそんな娘はいただろうか?
「もちろんよ。大切なのは生きることだもの。無理をしてまで、一か八かの賭けに乗る必要なんてないわ。」
「これ、おばあちゃんの口癖だったんです。」
はっきりとした口調に聞き覚えはあるような気がするものの、依然として声の主が誰なのか分からなかった。
つい昨日まで、いや、それどころかつい先ほどまで、こんなことはなかったはずなのに。もう何日も何ヵ月も、この暗闇に包まれた夜を彼女たちと共にしているのだ。なぜ今日に限って、誰だか分からない声などというものが存在するのだろう。
「私は幸いにも、まだ何も守るべきものがありません。自分の身、一つです。菊枝さんには悪いと思いますけど、私は遠慮しておきます。」
「私に悪いなんて、考えないで。何も悪いことなんてないんだから。」
やはり、誰の声だか分からない。
そして、一人が決断を下すと、この場を照らす裸電球のようにゆらゆらと揺れていたみんなの指針が、ようやく落ち着きを取り戻した。
◆ ◆ ◆
たった一つだけ修復の終わったみすぼらしい橋の上からは、左右どちらにも、元は田畑であったのだろうということが容易に想像できる湿地帯が広がっているのが見えた。いくつもの橋の残骸がいまだに残っているこの川も、きっと田畑に水を運ぶための用水路だったに違いない。
橋を渡り、かろうじて歩くことのできる畦道の名残のようなぬかるみを進みながら、やはりここにみんなを連れてこなくて正解だったと、私は思った。
街道筋のあたりはすでに復興の兆しが見え隠れしていたけれど、ほんの数㎞北に進んだだけでこの有様だ。とても、終戦から一年以上が経過しているとは思えない。そもそも、戦争があったことすら窺えない。
果たしてこの先に、本当に歓楽街などあるのだろうかと疑わずにはいられないほどの荒廃ぶりだった。
真っ暗闇の中、誰もいない渡しの舟小屋に二人で身を隠していたせいだろう。ほとんど眠ることができなかったらしい娘は、陽が高く昇る時間になっても、私に背負われたまま目を覚ます気配すらなかった。
こんな小さい子ども一人を連れているだけでもしんどいのに、あの娘たちみんなのことなんてとても面倒見切れない。例え掘っ立て小屋でも、拠り所となる場所があったからこそみんなで何とか協力して過ごすことができたけれど、これでは不可能だ。
娘を負ぶって歩くのにも疲れ、どこかで一休みしたいと思った時、背の高い雑草の奥に少しだけ、濃い緑色の塊が見えた。一ヵ所だけ低く重なった薄い緑色の茂みの向こうに、こんもりとした森のような小高い何かが見えた。
もう少し。あと少し。
そう言い聞かせながら歩を進めると、突然、それまで掻き分けてきた草むらが途切れ、しっかりとした足場が広がった。そして目と鼻の先には、この辺りの鎮守と思しき神社があった。
小さいながらも威厳のある御神木を携えている。
恐らく、遠目に見えたのはこの木々だったのだろう。
神社の奥には、この街の目抜き通りと思しき広い一本道が真っ直ぐに伸びていた。驚いたことに、きれいに舗装までされているではないか。
足首まで浸かってぬかるみの中を歩いてきた私の泥だらけの両足は、さぞかし浮いていることだろう。そう思うと恥ずかしくなって、慌てて私は袂から手ぬぐいを取り出し、足を拭いた。
袴も付けずに着物を大きくはだけさせ、さらしの腹巻を覗かせたやくざ風の男が、湯屋の看板の前に立ちながら、あからさまなしかめっ面を私に向けて寄越した。
「何しに来た?」
「新聞の募集を見て、来ました。仕事はありますか?」
その男は、背中で眠る娘を一瞥してから、地面に唾を吐き捨てんばかりの勢いで言った。
「うちにはねえな。他所を当たってくれ。」
そんな私たちの会話を聞いていたのだろう。
湯屋の向かいにある料亭の若旦那が、声を掛けて来てくれた。
「子ども背負って大変だねえ。姉さん、どこから来たの?」
仕立ての良さそうな着物に袖を通した彼は、どう見ても私より若い。
「川の向こうの天王さんのあたりです。たまたま拾った新聞で、募集の告知を見たので来てみたのですが、何か仕事はありませんか?」
「あっちも空襲は大したことなかったって聞いたけど、似たようなもんなのかな。ここら辺も何とか被害は免れたんだが、人はごっそりいなくなっちまって、この有様だ。」
そう言って彼は、私がどうにかかいくぐってきた草むらを指差した。
「こちらは昔から栄えていたんですよね。そんな噂は聞いたことがありました。」
「昔はそこそこね。今じゃ、進駐軍さまさまだ。彼ら相手に商売できているから、どうにかこらえてる。ご主人は戦争で?」
「はい。もう一年以上経ちますが、まだ復員していません。」
「まあ、希望は捨てちゃならねえよと言いたいところだけれど・・・」と言う彼は、さも申し訳なさそうな表情をしていた。
「そんな夢や希望にすがれるほど、もう若くはありません。子どももいますし。」
私は、あえて明るい声色で言った。そして目じりを下げ、口角を上げた。
すると若旦那は、腕組みをしながら豪快な笑い声を上げた。若そうに見える年齢にはそぐわない、堂に入った笑い声だった。
「ははは! 姉さんにそう言われちゃ、こっちの身がねえなあ。分かった。炊事、洗濯、雑用だらけだけど、うちで働くかい?」
「お願いします。」
私は、両手を重ねて腹の前に当て、深々と頭を下げた。
「姉さん、あんた一人?」
私が小さく頷くと、彼はさらに大きな声で言った。
「大した仕事はねえけれど、来たいっていう娘がいたらおいでって言ってやんな。何とか仕事の口は用意する。こんな時は一蓮托生ってやつだよ。」
◆
以前から、川を越えて少し北上した辺りに、昔ながらの遊郭があるという噂話は聞いていた。もちろん、遊郭なんてとうの昔に廃止になっているのだけれど、同じような歓楽街は常に存在し続けているらしい。
この辺り一帯は、どうやらアメリカの進駐軍御用達になっていたようだ。
翌日の早朝、料亭の下働きと思しき若い男性に街を案内してもらって、私は驚いた。そこは今までに見たことのない建物や看板で溢れ返っていた。立派な破風を携えた日本家屋から、赤煉瓦や石造りの洋館まで、あらゆる建物が揃っている。
通りには細工の施された鉄製の電柱が立ち並び、建物の脇には、細長い管を曲げて作った文字の向こう側が透けて空が見渡せる奇妙な看板が掲げられていた。そのほとんどはアルファベットで、言葉の意味は私には一つも分からなかった。
「これはネオンサインですよ。夜になると文字が光るんです。」
下働きの男の子が、そう教えてくれた。
なるほど、だから透けているのか。
昨夜、娘を寝かしつけてから部屋の明かりを消しても、障子戸の奥が眩しくて奇妙な思いをしたのだが、ようやくその合点がいった。
障子を開ければ分かることだけれど、色数の多い灯りがどうにも薄気味悪かったのと、ほとほと疲れていたこともあって、すぐに寝入ってしまったのだ。今夜こそきちんと見てみよう。
しかし、結局のところ私がしっかりとネオンサインを見て、その煌びやかな美しさに酔い痴れることができたのは、それからずいぶんと時間が経ってからだった。その日の昼支度から本格的に仕事に入ると、休んでいる暇もないほど分刻みで組み込まれた雑用たちが、私を待ち構えていた。
どうやらこの浜野屋という料亭は人気の店らしく、米兵たちの出入りは昼夜を問わずひっきりなしに続いていた。
不思議なことに、座敷に長居して大騒ぎするような米兵たちはほとんどいない。酒に酔って大立ち回りを披露するものもいない。
恐らく、この店で腹ごしらえをしてから舞踏場や玉突き屋といった社交場へと繰り出して行くのだろう。
その後はカフェーで目ぼしい女性を見つけて・・・
まあ、三十路も超えればそんなことくらいは想像がつく。
私にはできないし、残してきた若い娘たちにだって女郎の真似事のような仕事はさせられないけれど、だからといって米兵の相手をする娼婦たちを悪く思うことはできなかった。
女性ばかりか、最近では年端もいかない子どもまで身売りの対象になっているという噂も聞くけれど、配給なんかではとてもじゃないけれどお腹は満たされないし、そもそも寝泊まりする場所だってろくにないのだから。
私は、隣ですやすやと寝息を立てる娘の頭を撫で、彼女の頬に自分の頬を重ねた。
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