長編小説【三寒死温】Vol.17
第三話 型破りな中学校教師
【第二章】生徒の想像を裏切る教師
まだ五月なのに、東の空では大きな入道雲が仁王立ちしながら、西日を正面から一身に浴びていた。無機質な白い花瓶を思わせるつるりとした無数の凹凸を見ているうちに、あたしは思い出した。
そういえば、給食当番の割烹着を持っていない。
肩から斜め掛けしたダッフルバッグを開けて、手を突っ込んでみる。
もちろん、ない。
ついさっき、汗にまみれたジャージを入れたばかりなのだから分かってはいたけれど、念のために確認せずにはいられなかった。
ああ、これは教室に忘れてきたな。きっと、机のフックに掛けっぱなしだ。
慌てて踵を返して体育館を飛び出し、渡り廊下を走り始める。
後ろから「どこ行くの?」と叫ぶ声が聞こえてきたけれど、あたしは無視した。もう一つおまけに「先に帰るよ!」と叫ぶ声も追いかけてきたけれど、これも無視した。
壁一面ヒビだらけの校舎に入って、三階分の階段を一気に駆け上がると、さすがに少し息が切れた。
深呼吸しながら屈伸をするついでに、ほんの数秒だけ、両ひざに手をつく。あれだけ走らされた後なのだから、当然といえば当然よね。
フットワークに磨きをかけるためには、足腰の鍛錬が欠かせないことくらい分かっている。でも、ちょっとやり過ぎだろうと愚痴の一つも言いたい気分だ。期待の裏返しなのは理解できるけれど。
創部以来初めてとなる県大会出場が決まってからというもの、顧問の気合いの入りようにはいささか目に余るものがある。いい大人が、嘘をついたピノキオのように鼻を高々と伸ばし、調子に乗って舞い上がっている姿は滑稽に見えた。
でも、そういう自分たちも決して悪い気はしていない。
それどころか、人の耳目を集めるのはこんなにもテンションが上がるものなのかとさえ、思っている。
ここ最近、あたしたちの練習が始まると、体育館にはギャラリーが訪れるようになった。それも、同級生だけでなく一年生まで。
それは数人の時もあれば、10人を超えることもある。
もちろん今までは皆無だ。それどころか、今年の春までは入部希望者を集めるだけで四苦八苦していたのだ。
テニスやバレーボール、最近だとバスケットボールやソフトボール。
そんな運動部の王道を突っ走るみんなからしてみれば、練習の時に見学者が数人いるからといって何を騒いでいるのだ、となるのかも知れない。
そもそも、全国大会ならいざ知らず、県大会に出場する程度で何を浮足立っているのかと。
でも、それはそれだ。言わせておけばいい。
他人の視線に慣れていないあたしたちからすれば、それが例え数人であっても気になって仕方がないのだ。
その上、練習中に初めて感じるギャラリーの視線には、色々な感情が入り乱れていた。期待、憧憬、羨望、好奇、そして崇拝。良くも悪くも、初心者には刺激が強過ぎた。
そこに男の子なんて混じっていたりしたら、なおさら。
洗濯物を畳むように乱れた呼吸を一つずつ丁寧に戻しながら歩いているうちに、校舎の突き当りが見えてきた。
そういえば、もうとっくに鍵が閉まっていてもおかしくない時間帯だ。
開かないことを想定しながら教室の前に立ち、引き戸の扉に手を当てたところで、身体の動きが自然と止まった。
人の気配を感じる。いや、気配だけじゃない。話し声も聞こえる。
もしかしたら、とんだおじゃま虫だったかしら。
放課後の教室といえば、やはり真っ先に頭に浮かぶのは告白だ。
上手く行っていればいいけれど、どちらかが振られたなんていう場面には遭遇したくない。いや、かえってそっちの方が面白かったりして。
いずれにしても、このまま教室に足を踏み入れるのは忍びない。
もう給食当番の割烹着は諦めようか。扉を開けずに帰ることも考えたけれど、明日の朝、担任が見せるであろう嬉しそうに説教するあのしたり顔を想像すると、それはそれで腹が立つ。
あいつ、絶対に彼氏なんかいないはずだ。性格悪そうだもの。
仕方がない。良い雰囲気でも悪い雰囲気でもどちらでもいいから、あまり深入りせずにサクッと入ってサクッと出てこよう。
そう心に決めて、あたしは引き戸をそっと開けた。
でも、そこにいたのはあたしの想像とはずいぶん違う面子だった。
男女のカップルでもでもなければ、二人きりでもない。
これはもう、想像というより妄想と呼んだ方が正しいかも知れない。
教室の中にいたのは、クラスメイトの女の子たち数人だった。
ホッとしたような残念なような、妙なため息を吐いたのも束の間、その中の一人が岬であることに気がついて、あたしは小さな違和感を覚えた。
どうして岬が麻衣たちと一緒にいるのだろう?
二人が話をしている場面なんて、正直に言って初めて見た。そういう私だって、麻衣と話をしたことはほとんどない。それどころか、数人とはいえ麻衣がクラスメイトの中に混じっている場面を、見たことがない。
最初に動いたのは、その麻衣だった。
「知ってる? これ、岬さんの彼氏なんだって。」
滅多に聞くことのない麻衣の声は、想像していたものとはずいぶんと違っていた。この娘、こんな喋り方するんだ・・・
思わず扉の前で棒立ちになっているあたしに近づくと、麻衣は自分のものと思われるスマホの画面を差出してきた。
そこには、一人の男性の写真が映し出されていた。
おじさんと呼ぶにはまだ早いかも知れないけれど、おにいさんという程の若々しさもない。整った顔立ちとは言い難いけれど、不格好に崩れ落ちているわけでもない。
そんなごく普通の見た目の男性が、隣に並ぶ女の子と手をつないでいる。
女の子の顔は完全に隠れていたけれど、雰囲気からして間違いなく岬だ。
「彼氏って言うより、パパでしょ?」
麻衣の後ろにいた一人がからかうような声で言うと、その他の女の子たちが一斉に笑い出した。
まだ私たち中二だよ? 早くない?
そんな言葉が立て続けに投げかけられる。
そこであたしは、はたと気がついた。
「もしかして、前に話していた従兄のおにいさん?」とあたしが言うと、
「うん。」とはにかみながら岬が微笑んだ。
それは、岬が恋焦がれる従兄との2ショット写真だった。
途端に、真冬の公園でころころと表情を変える岬の姿が、あたしの脳裏に蘇ってきた。
年齢も離れすぎているし、顔だって特にカッコいいわけではないのだけれど、どうしても好きなのだと言って顔を赤くしていた岬。
「あたしも、お兄ちゃんに憧れるなあ」という言葉に、「向こうにもそう思われてるみたいで、相手にしてくれない」と膨れっ面をしてみせた岬。
あたしが何気なく口にした「いとこ同士って、結婚できるんだっけ?」という言葉に、何も言わずに俯いてしまった岬。
悪気があったわけではないけれど、本当に悪いことをしてしまったと、あの時は後悔した。
麻衣が何かを口にしかけた時、校庭からあたしの名前を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。間髪入れずにもう一度。数秒後、更にもう一度。
先に帰るなんて言っておきながら、あの子たち、待っていてくれたのだ。
「ヤバ、みんなのこと待たせてるんだっけ。それじゃ岬、後でね。」
そう言って、あたしは自分の机のフックから割烹着の入った白い袋をむしり取ると、大声で「待って!」と叫びながら教室のドアを開け、一目散に廊下を突っ走った。
特にこの後、岬と会う予定なんて入っていなかったけれど、咄嗟に出てきた言葉だった。
◆ ◆ ◆
改めて手すりに寄りかかりながら、あたしは「本当に富士山って見えるんだね。」と言った。
隣で薄っすらと白い煙を燻らせているおじさんは、煙草を持つ左手を手すりの外にだらんと投げ出しながら、右手で頬杖をついている。
「今日はちょっとぼやけてるな。一月前だったら、もっとくっきり見えたぞ。」
あたしは特に何も応えずに、じっと富士山を見つめていた。
鈍色に連なる長いでこぼことした稜線の中で、ひときわ高く白くそびえる富士山のシルエットは、改めて見ると左右に長く広がるその裾野の伸びやかなラインが美しい。
「で、理由は何なんだ?」
ああ、やっぱり。
ここまでは何も関心のなさそうな感じで近づいてきたけれど、そりゃ当然、そっちが目的だよね。いや、最初から目的を持って近づいてきたのではないとしても、この状況を鑑みれば、そうなるよね。
「やっぱり、止めるんだ?」
おじさんは、屋上から見渡せる景色を一通り眺めてから、言った。
「教師という立場から考えれば、止めなくちゃいけないんだろうな。」
そして、さっきと同じ半透明の乳白色をした煙を吐き出しながら、続けた。
「でも、俺がお前らの先生になるのは明日からなんだよな。だから今日は、あくまでも通りすがりのおじさんに過ぎない。」
いやいや、例え通りすがりのおじさんでも、この場に居合わせたらとりあえず止めるでしょ。
三年生の始業式を翌日に控えた日の早朝に、女子中学生が校舎の屋上で手すりを乗り越えてそこに寄りかかっている場面に遭遇すれば、誰でも。
「それじゃ、止めないわけ?」
「止めて欲しいのか?」
いよいよ、本当に教師なのかどうか疑わしくなってきた。
と言うよりも、やはりこのおじさんはあたしを試しているのだろう。
本気でここから飛び降りる気があるのかどうか、あたしの気持ちを確かめているのだ。
ああ、分かった。
あえて止めないことで、あたしの迷いを引き出そうとしているのね。
慌てて止めに入るよりも、関心のない素振りを見せた方が、確かに効果的かも知れない。現に今、あたしは、このおじさんが何を考えてこういう言動に至っているのか、興味を持ってしまっている。
それが狙いなのだ。きっと。
「俺が止めたくらいで、キミの死にたいという気持ちは収まるのか?」
えっ? と呟いたきり、あたしは何も言えなくなった。
想定していた展開と違う。
そして、開きかけた口を閉じるのも忘れて、おじさんを見つめていた。
「たいして話をしたわけでもないが、後先考えもせず衝動的にこんなことをするような人間には見えないけどな。キミは。」
だからこうやって、キミが何を考えているのかを聞きたいと思っているわけだ。そうおじさんは付け加えた。
本気で止めようと思ったら、とっくにそうしているよ。
もう、ここまで近づいているんだそ。
すぐにキミを抱き上げて、とりあえずこちら側に引きずり戻しているよ。
そんなおじさんの言葉が、考えることを停止してしまったあたしの頭の中にこだまする。フリーズしているあたしを横目に、おじさんは短くなった煙草を人差し指と親指でつまむと、手すりの外に放り投げた。
ことごとく想像を裏切るこのおじさんの言動に、あたしは「何それ。」と囁くのが精いっぱいだった。
「俺がキミのこれからを保障してやれるのは、明日から卒業するまでのたかだか一年くらいだ。その先のキミの将来には、何一つ責任を持つことはできない。教師なんてそんなもんだ。あまり大きなことを期待するな。」
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