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長編小説【三寒死温】Vol.20

第三話 型破りな中学校教師


【第五章】煙草を投げ捨てる教師

きっかけは、本当に大したことのない些細な出来事だった。

この学校では、三年間で一度だけ、二年に進級する際にクラス替えが実施される。そこであたしは、アラタと修とは離れてしまったけれど岬とは再び同組となった。
そして新学期が始まって二か月と少しが経ち、ちょうど梅雨に入る頃、久しぶりの夏服がようやく体に馴染んできた雨の日に、その事件は起きた。

もう間もなく三時限目の授業が終わろうとしている時だった。
岬が突然、両腕で胸の辺りを押さえながら立ち上がり、走り出した。
そのまま教室から出て行こうという勢いで。

しかし途中でその足を止め、振り返って自分の席まで戻ると、岬の後ろに座る女の子の頬を思い切り平手で叩いた。
ぱあんという乾いた音がこだまする中、岬は急いで踵を返すと、最初にそうしたように、走って教室を後にした。

その間、その他のクラスメイトはもちろん、授業をしていた英語の教師も言葉を発することができずにいた。道端でふと見かけた黒猫のように、気がついたらもういない。あっという間の出来事だった。

どうやら、岬の後ろの座席の女の子が授業中にそっと手を伸ばして、岬のブラジャーのホックをブラウス越しに外したことが原因らしい。

どちらかと言えばその子は、一年生の頃からあまり目立つ存在ではなかった。学校そのものに馴染んでいなかったようにも見えた。
親ではなくお婆ちゃんが彼女の面倒を見ている、という噂話を聞いたこともあったけれど、それが原因だったのかは分からない。
だって、両親の揃っていない家庭の子なんて特に珍しいわけでもないから。

一方で、なぜ岬があそこまで目くじらを立てて怒ったのかも謎だった。
確かに、服の上からブラジャーのホックを外されるというのは、決して気持ちのいいものではないだろう。それも彼氏ならいざ知らず(悲しいことに、そんな経験はまだないけれど)、授業中に仲の良いわけでもないクラスメイトに外されたのだから、怒るのも当然というもの。
でもだからといって、ビンタを張るとは恐れ入る。

ただし、引っかかるものがなかったわけではない。その数日前、岬とその子が放課後の教室で話をしていたのを思い出したからだ。

部活帰りに忘れ物を取りに戻って、たまたま出くわした場面。

いつも一人だったその子は、数人の取り巻きを連れていた。そしてなぜか、岬と岬の従兄が手をつないでいる写真を持っていた。しかも、取り巻きの子たちは、それをあたかも援交であるかのようにはやし立てていた。
強烈なビンタをお見舞いする姿を見て、岬って案外、気が強いんだなと微笑まずにはいられない一方で、妙な胸騒ぎがしたのも確かだった。

仲の良いあたしですら驚いたくらいだから当然かも知れないが、あたし以外のクラスメイトの反応は、岬にとってかんばしいものではなかった。
何があったかは知らないけれど、そこまでする? というのがクラス全体の雰囲気だった。

そして、さらに岬の立場を悪くさせたのが、担任教師の取った軽率な行動だった。

その若い女性教師は、あろうことか放課後のホームルームで事の顛末をクラス全員に話して聞かせ、いたずらをした女子生徒を壇上に上げて岬に謝罪させたのだ。それはまさに公開処刑だった。その子にとっても岬にとっても、まったくもってありがたくもないはた迷惑な行為だった。
今後、どちらかがクラスで微妙な立場に置かれることくらい、あたしにだって想像がついたくらいだ。


案の定、翌日からいじめが始まった。
しかし、その対象はあたしの想像通りではなかった。いじめられたのは、いたずらをした麻衣ではなく、いたずらをされた岬の方だったのだ。
しかも首謀者は、思い切り岬にビンタを喰らった張本人だった。

男子ならば、暴力とはいえあれだけはっきりと拒絶の意思を示せば、そこから更にいたずらがエスカレートすることは少ないだろう。
いじめは、黙ってやられる相手がいて初めて成り立つものだ。
いじめる側は優越感を味わいたいのであって、いちいち逆らう相手を屈服させるような過程を楽しむものではない。
そこにはスリルも達成感も必要ない。
だから当然、岬がいじめの対象となるとはとても想像できなかった。

確かに、岬のビンタに引いていた子はたくさんいた。担任によって暴露された理由も相まって、「何もそこまで」という雰囲気があったのは事実だ。
しかし、どう考えてもいたずらをした麻衣の方が悪いに決まっているし、岬にいたずらをすれば自分だって同じ目に合うかも知れないと思うはずだ。

でも、現実は違った。
女子には、群れて力に対抗する性質が備わっている。

学年が上がって、新入生からは「先輩」と呼ばれるようになった。
それでいて、最上級生からいまだに「後輩」扱いをされ続けている。
そんな、微妙な立ち位置にいる自尊心を満たしてくれるような、何か矛先のようなもの・・・・・・・・を、みんなが探していたのかも知れない。

次第に、いじめが始まる前から岬と仲の良かったあたしの風向きも、怪しくなっていった。
あたしたちは部活も違うし、普段から常に一緒だったわけではない。その傾向は二年生になってからは更に顕著だったが、やはり同郷のよしみではないけれど、同じ小学校の出身ということで一括りにされることは多かった。

数人いたあたしたちのグループからは、一人抜け、二人抜け、気づけば同じテーブルで昼食を食べるのはあたしと岬の二人だけになっていた。
あたしは特に構わなかったし、岬もあまり気にする素振りは見せていなかったけれど、いじめの実行犯たちは、放っておいてはくれなかった。

早速、あたしは放課後、体育館の裏に呼び出された。
漫画やドラマでは見たことがあるけれど、本当に体育館の裏なんだなと、芸のない彼女たちを少し馬鹿にしながら、あたしは指定場所へと向かった。

予想通り、あたしは岬と仲良くするのをやめるか、一緒にいじめを受けるか、二者択一の質問への回答を迫られた。あたしは、この場所に来る前から決めていた返事を、彼女たちに伝えた。
その場にいた何人かの子は、あたしの答えに動揺していた。
いじめる相手が二人もいたら、いつ何時、反旗をひるがえされるか分かったものではない。当然の反応だ。
でも麻衣は、特に驚く様子もなく、「あ、そ。」と短く言い放っただけだった。

さて、それじゃ予定通りに、ということで、あたしはその日のうちに両親をつかまえて、この日の出来事とそこに至るまでの経緯を詳しく説明した。
そういうわけだから、あたし、明日からいじめられっ子になります、と。
当然、両親はあたしのことを応援してくれるものとばかり思っていた。だから、あたしの話を聞き終えた二人が真っ先に発した言葉に、耳を疑った。

「岬ちゃんって、誰? あなた、そんなに仲良しだった?」
「おまえ、どうしてそこまでして、その子のことを守るんだ?」

ちょっと待って。小学校から一緒だった岬に対して「誰?」とか「その子」ってどういうことよ。
確かに当時は仲良しだったわけではないけれど、それにしたって四人しかいない「はぐれ学区」の一員なのだから、覚えていないはずはないでしょう!
そんな文句が頭の片隅に浮かんだけれど、それよりも落胆の方が激しかった。

翌日、少しだけ不安な気持ちを隠しつつ、早起きして学校に行き、担任にいじめの存在を明らかにした。気は進まなかったけれど、親が頼りにならない以上、仕方がない。
それに、この担任に「お前が余計なことをしたからこうなったのだ」と知らしめてやりたい気持ちも、少なからずあった。

ぎゅっと目を瞑りながら黙って聞いていた担任は、あたしが話し終えると、あたしの肩をポンポンと叩いて言った。
「よく言ってくれたわね。大丈夫だから、任せなさい。」
前日の夜の両親の反応にがっかりしていたあたしは、この言葉に、ほっと安堵のため息をもらした。

しかし、結局のところこの担任にも、あたしは落胆させられることとなる。

その日の放課後に職員室に呼び出されたあたしは、彼女から一枚の紙切れを見せられた。そこには、もういじめはしませんという簡素な一文、それに麻衣とその取り巻き数名の名前が直筆で書かれていた。
思わず「何ですか? これ。」とあたしが言うと、その若い女性教師は笑顔を浮かべながら自信たっぷりにこう答えた。
「見れば分かるでしょ。いじめていた子たちの念書よ。彼女たちも反省していたわ。これでもう大丈夫よ。」

◆ ◆ ◆

ひとしきり泣いて、少しだけ気分がすっきりした。
多分、あたしがあんな安直に大人を頼りさえしなければ、岬が死ぬこともなかったと思うんだよね。そう言うとおじさんは、もう何本目だか分からなくなった煙草に火を点け、小さな声で呟くように言った。

「一応、大人の代表として謝っておく。悪かったな。」
「何それ、おじさんが謝る必要ないじゃん。」
「まあ、勢いだ。俺も聞いていて、胸糞悪くなった。」
こんなもんじゃないよ。あたしはそう言ってから、さらに続けた。
「岬が援交してるなんて馬鹿みたいな噂まで流れていた。それどころか、相手の家族にばれただの、動画を撮られていて流出しただの、妊娠して中絶しただの、みんな好き勝手言いやがって。」
「キミの話を聞いている限り、そんな生徒には思えないがな。」
「当たり前じゃん! 誰がそんなデマ言いふらしているかだって、ちゃんと書いたよ。」

結局、岬は夏休みに入ってすぐに、自ら命を絶った。

「さすがに人ひとり死んでるからさ、ちゃんとしたアンケートもやらされたんだよ。クラス全員。もちろんあたしは、全部、隠さずに書いた。
でも、ほとんどの事実はなかったことにされてた。よくある子ども同士のやり取りが少し行き過ぎてしまったって言える程度のいたずらだけが、事実として残された。それだけ。」
「そんな適当な調査で、よく岬ちゃんの両親は納得したな。」
「それがね、聞いてびっくり。岬の両親の方から、公にしないでくれって言ってきたんだって。いじめどころか自殺のことまで。どうか事を荒げないで欲しいって。保護者会でそう説明されたって、ウチの親が言ってた。
娘相手に、勝ち誇ったような顔してね。」
「岬ちゃんに兄弟はいる?」
「まだ小学生になる前の弟がいたはず。」

おじさんは舌打ちをしながら、ついさっき火を点けたばかりの、もう何本目だか分からない煙草を手すりの向こう側に投げ捨てた。
あからさまな嫌悪の表情に、あたしは思わずおじさんから目を逸らした。

「大人としては、こういうのって理解できちゃうもの?」
「さっきも言っただろう?『子どものため』という言葉は便利なんだよ。」
「子どものため・・・」
「そうだ。そこに『残された』とか『まだ小さい』なんていう言葉がプラスされたら、なおさらだ。」
「結局、岬が死んだあとすぐに、一家揃って引っ越して行っちゃった。」

あたしは、スカートのポケットからフリスクのケースを引っ張り出して、一粒食べた。
おじさんにもあげる。そう言って一粒手渡すと、おじさんは懐かしいなあ、と言いながら乱暴に口の中に放り込んだ。

「正直に言って、あんな子たちのいじめで岬が死を選ぶっていうのが、いまだにピンとこないんだ。」
「キミと一緒なんじゃないか?」
「あたしと一緒?」

それってどういう意味?
あたしは、隣にいるおじさんの方に顔を向けた。力強い朝日の陰になって、おじさんの表情はいま一つはっきりとは見えない。

「俺も最初は、なぜキミが死のうとしているのだろうと疑問に思った。キミと話をすればするほど、その疑問は深まった。耐えられないほどのいじめを受けているわけではなさそうだし、本気でいじめの首謀者たちを懲らしめたいと思っているわけでもなさそうだ。」

図星だ。
確かにあたしは、いじめが辛くてここにいるわけではないし、麻衣たちに仕返しをしたくてここにいるわけでもない。
もちろんどちらの気持ちもまったくないということはないけれど、あたしの心の大半を占めているのは、別の感情だ。

「キミは大人を安易に信じてしまったことを後悔し、絶望している。何より、岬ちゃんの自殺を自分のせいだと思っている。」
「それのどこが、岬と一緒なの?」
あたしは、今一つ表情の読み取れないおじさんの横顔から、目が離せなくなった。
「いじめだけが理由ではないかも知れない、という可能性の話だ。」

つづく(第三話 第六章へ)


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