107 季節外れのにおい
冬も半袖と裸足って、どんなハラスメントだよって。
先生の前で愚痴ったら何にでも共感してもらえるはずだった。
「もう雪降ってんすよ。それが、半袖に袴っすよ。どっからでも冷えるって」
学級日誌を渡すついで、ちょっとだけ話せたらいいなぁと口笛を吹きながら廊下を歩いてきた。最近気になっているバンドとか、YouTubeで見た動画でおすすめのやつとか。そっちを話しておけば良かった。先生は咳払いをした後「ハラスメント」と小声で繰り返した。好きなことを話している時と反対の声色だった。一回借りたら頭がくらくらした度数の眼鏡の奥で、じっと動かない眼は暗い。まともに顔を見られないくせに、後ろで一つにまとめられていた黒髪が解れて頬に落ちた瞬間、唾を飲んでぎゅっと喉が鳴ってしまう。少し怒っているような感じもした。先生のいる職員室の端っこ席はコーヒーと、ほんの少しだけ制汗シートのようなにおいがしている。嫌な感じはしなかったけれど、先生からするのには違和感があった。黙ったまま、日誌を受け取ったあと静かになってしまった先生に対して「この間」と言葉を吐き出す。邪魔をするつもりはなかった。本当に、日誌を渡してすぐ道場に向かう予定だったのだ。
「教えてもらったバンドかっこよかったっす!」
軽薄な唾液が口内に広がっていく。ブラックコーヒーは苦くて飲めないはずなのに、今は飲みたくて仕方ない。先生は「うん」と言ったが、目線は合わせてくれなかった。身体は熱いはずなのに、背筋がどんどん冷えていく。
「今度、俺のおすすめまた持ってくるんで」
「うん」
「鍛冶ぃ、那波先生の邪魔すんなぁ。今日は掛かり稽古やんぞぉ」
左側から高柳の粘着質な声がして、強い握力で肩を掴まれた。あわてて席を離れると不快な笑い声が背後に響いた。先生の表情の意味は結局分からずに職員室のドアを乱暴に閉めた。道場に向かう足先には力が入らない。もう暖房のにおいがしているのだから、仕方ないことなのだ。高柳が道場にやってくる頃には、自身の汗のにおいだけ感じられたら良い。
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