「般若心経」、ただ唱えること#150
今日もヨガスタジオに行っていたのだが、今日流れていた曲が、私にとってすごく瞑想を深めてくれる、深い意識状態へいざなうものだった。
今まで曲の違いで、入りやすさの差をあまり感じたことなかったため、面白い気付きだった。
ふと、お経を唱えることにも同じようなことがあると思い、来月の高野山にいくこともあり、本棚から般若心経を久しぶりに取り出し唱えてみた。
すると、かなり集中して心が穏やかになる意識状態へと変化した。
マントラ瞑想があるように、お経を唱えることは、メディテーションの1つと言える。
以前、お経ではなく、単に好きな言葉でマントラ瞑想を行った時には、言葉が自分にしっくりこなかったのか、そこまで意識状態の変化を感じなかった。
しかし、般若心経は語感が良いこともあって、私にとっては瞑想を深める良い実践になりそうだ。
今は、文字を追うように読み上げているが、これが暗記して言えるようになると、さらに深い意識状態になれるような予感がする。
明日からも毎日般若心経を唱えてみたい。
ところで、語感の心地よさは、やはり玄奘の翻訳スキルの高さが現れている。
音写という音をそのまま残したまま漢字に落とすという高度な翻訳を行っている。改めてありがたく思う。
そういえば、昨年とあるお寺で修行させていただいたとき、お経を読むにあたり、何の解説もないことに、意味を理解せず読むことに何の意味があるのか?と疑問に思っていたことを思い出した。
それはそうなのだが、今となっては、お経を読むことは、それ自体が呪文として意味をなしている、むしろそれが真髄なのであるということをようやく体感をもって少し理解でき始めたように思う。
だからむしろお経に書かれている意味など知らなくてもいいほど。深い意識状態に入るにあたって、意味がむしろ障害になる。
私たちは言語、意味構築活動自体が限界をつくってしまっているからだ。
思えばブッダが文字情報を1つも残さず、教えの伝達を「口承」という形式にこだわっていたのもそういうことなのかもしれない。
これは仏教だけでなく、その前にあったバラモンたちの教え、インド哲学、「アーラニヤカ」、「ウパニシャッド」も、文字化されることがなく、「ヴェーダ」の響きと一体化することを大切にしていたのも、こういうことだったのかもしれない。
これらを踏まえて、私の頭ではなく、体感として理解できるように、しばらく般若心経を唱えることを実践していきたいと思う。
2021年5月11日の日記より
2021年5月13日