古代の薩摩940年 #74
最終章 隼人の乱 序
日本武尊の熊襲征伐以降薩摩は平穏な日々が続いた。ところが邪馬台国→大和王権→大和朝廷へと引き継がれた全国統一はなかなか進まなかった。たびたびの朝鮮出兵で重い負担に苦しんできた北九州を中心とした豪族たちは筑紫の磐井を押し立てて、527年ついに朝廷側に反抗。薩摩にも両陣営から出征の要請が届いたが、一国平和主義を貫いてどちらにも与(くみ)せず、中立を守った。戦いは1年4か月あまり続いたが、朝廷側の物部麁鹿火(もののべのあらかい)によって平定された。その後朝廷内で各豪族による激しい権力闘争の結果、一時蘇我氏が台頭したが、645年の大化の改新によって中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原氏の祖)によって氏姓制度が廃止され、天皇中心の中央集権国家として主な豪族は貴族化していった。公地公民の名の下で、班田収授法が実施され、701年の大宝律令の完成で日本初の法治国家が誕生した。とはいえ薩摩にとっては全く迷惑な出来事だった。
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