名曲「青葉の笛」の周辺

以前紹介した名曲10選の中の「青葉の笛」について書いてみたい。
まず、一番の歌詞を見てみよう。
一の谷の 軍破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

☆    公達(きんだち);ここでは貴族化した平家一門の御曹司(=若者)たちの総称
時代は平安末期。平清盛が病没し、平家に陰りが見えた時、関東で源氏が台頭する。
源(木曽)義仲を滅ぼした源義経は兄=頼朝の命を受け、1184年、2月7日一の谷に平家を追い詰める。鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)としで有名な段。ここ須磨の海岸では美少年平敦盛の吹く笛の音が遠くから聞こえる。この竹笛は弘法大師(空海)が唐に留学していた時に作ったもので、帰国後に嵯峨天皇に献上され「青葉の笛」と名付けられた。その後、敦盛の祖父平忠盛が鳥羽院から賜ったものと伝えられる。笛の名手だった敦盛は戦場でも演奏していたという。熊谷次郎直実との一騎打ちで敗れる有名な場面は涙なしには語れないが、中学校の国語教科書でもおなじみだから割愛する。
なお空海は真言宗の開祖というだけでなく、芸術家としても超一流で「書」では嵯峨天皇・橘逸勢とともに三筆の一人。「いろは歌」の作者とも。多芸でダ・ヴィンチに比肩するとも。

次は2番の歌詞
更くる夜半に 門を敲き
わが師に託せし 言の葉哀れ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や今宵」の歌

一方同じころ、都の藤原俊成の門前に清盛の異母弟薩摩守平忠度(たいらのただのり)が佇んでいた。忠度は歌の師匠である俊成に暇(いとま)乞いをするとともに歌を一首託そうとしていた。しかしその願いはかなわず、俊成は源氏の目を恐れたか、邸の中で動かず、忠度は大声で別れをつげ、師匠と顔を合わすこともできず、寂しく去っていく。ちなみに俊成の子が百人一首の選者で有名な藤原定家である。そしてその歌は死後彼の箙のなかから発見される。
それが「行き暮れて 木の下蔭を 宿とせば 花や今宵の あるじならまし」である。
☆    箙(えびら)とは矢を入れる武具;この中にこの歌が残されていたという。
☆    「言の葉」とは言葉のことだが、ここではこの和歌のこと。

☆    まったく関係のないことだが、汽車にタダで乗る(もちろん違法)ことをわれわれの世代は「薩摩の守」を決め込むといった。忠度(ただのり)の音を借りた駄洒落であるが、結構当時は人口に膾炙した。千年後に自分の名前がこんな形で使われるとは、忠度さぞかし草葉の陰で苦笑いをしていることだろう?ちなみに若いころ私も一度先輩と一緒に実行したことがある。JRのみなさん、申し訳ありませんでした。時効だろうとは言え懺悔しておかないと。
最後にせっかくの「もののあはれ」のいい雰囲気をこわしたか・・・?

歌はYouTubeで見ることができます。ぜひ覚えて歌い継いでください。


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