古代の薩摩940年 #58

第三部 薩摩と邪馬台国の攻防 司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)の目
私が子供のころはもう後漢の皇帝の権威は地に落ちて、あちこちに群雄が割拠して戦乱が続いていた。その中からわが主君曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が台頭。この三国による激しい戦いが続いたが、わが10年来の好敵手=蜀の希代(きたい)の英傑=諸葛亮孔明も西暦234年五丈原で私と対峙中に病没。ほっとした一方で残念というかよきライバルを失った悲しみというか複雑な気持ちだった。それから4年後の238年、魏の2代皇帝明帝(曹叡=そうえい))のとき、倭国から、卑弥呼なる女王の朝貢使節がやってきた。倭国は大乱が続いたが、鬼道に仕える(シャーマン)という卑弥呼の登場でようやく安定・平和がもたらされたという。明帝は使節に「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印=卑弥呼を倭の王として認めるというしるし=と銅鏡100枚を与えて帰した。まだ朝鮮半島が不穏な時、属国を一つでも増やしておきたかったからだ。蜀の力が急速に弱まった今、残るは呉だが、私が生きているうちに魏による全国統一を見極めたい。
☆しかし皮肉にもと言うべきか、280年に全国を統一したのは司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)の孫、司馬炎(しばえん)で。国名を晋(しん)とした。しかし晋の国も長くは続かず、中国はまたまた混とんとした時代になっていく。
☆ 補則:三国志と三国志演義について
「三国志」は前回もふれたが、この晋の陳寿が書いた正史である。諸葛亮孔明についても政治家としては一級品と認めつつも軍略家としてはどうだろうかと疑問符をつけている。一方孔明を天才軍師と描いている「三国志演義」はそれから約千年後の明(みん)の時代にまとめられた小説で必ずしも事実を書いているとは言いがたい?


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