「清濁併せ呑む度量」という日本の政治風土

清濁併せ吞む(せいだくあわせのむ)という言葉は昔は有能な政治家の必須条件(?)でした。派閥の領袖になり、派閥を維持していくためには多額の資金が必要だったそうです。だから総理大臣になった人の多くは多かれ少なかれ、悪いことをしてきたのではないでしょうか。親の資産と給料だけでは無理だったはずです。そんな悪さをしないで済むようにと政治資金規正法なるものができたのでした。それでもやっぱり、足りなくって裏金作りをしてしまったのでしょう。それを正当化するために「清濁併せのむ度量」という言葉が必要でした。まるで「浮気は男の甲斐性」に似ています。
この言葉の本来の意味は「きれいな川も汚れた川も海はすべてをうけいれてくれる」ことから、度量の大きい人を例えるときの誉め言葉です。これを政治の世界に当てはめて考えると、少しぐらい悪いことをしてもそれ以上にいい仕事をすればそれでいいのではないかという意味に誤用されて使われてきました。それが大人で、いつまでも正しいことだけを言ったり、したりするつまり、「少年の心」を引きずるようでは男としては失格だと、政治の世界では通用しないということでした。この常識を覆すことができたのは何といっても女性の進出でしょう。女性はこのような考えを決して許しません。今後におおいに期待です。
さて、今、兵庫知事選挙結果が大きな問題になりつつあります。私には何がどうなっているのか、誰が正しいのかさっぱりわかりません。ネットからの情報の氾濫でさらに混乱に拍車がかかっています。我々には事態の推移を見守るしか方法はないのでしょうか。地方自治というのは住民と直接結びつくため、政策の優先順位や取捨選択が首長の最重要課題です。国政は国際問題として外交や貿易、防衛問題等で世界的な視野を持たなければなりませんが、地方自治体の首長は住民のために何をしようとしているのかが第一です。例えば、あっちの壊れそうな橋を直すのか、こっちの穴の開いた道路の修理を急ぐのか、はたまた遠方のお年寄りのためのバスを走らせるべきなのか、やりたいことは山ほどあるはずです。そのとき、わいろをもらったからA建設に仕事をさせようなどというのは言語道断ですが、すべてをいっぺんに解決するのは至難の業です。そういうとき、みんなが納得できるような言葉でしっかり説得する力のある人が良いと思います。説明責任ではないですよ。説明責任というのはせいぜい言い訳を並べるだけです。説得する力です。なぜ今これが必要なのかをみんなにわかってもらうだけの説得する力量が大事だと思いませんか?

いいなと思ったら応援しよう!