「男らしさ」を解放すること
※以下は連続した僕のツイートを求めたものです。読みづらい点はご了承ください。
日本に限定して考えたとき、ジェンダーに関する教育は小学校から始まり、またその内容は「すでに子どもはジェンダー・ステレオタイプ(男はこういうもの、女こういうものという価値観)に馴染んでいるので、それを解いていく」というものになっています。
では乳幼児期はどうなっているかというと、教育場面(保育園・幼稚園など)ではむしろ、ジェンダー・ステレオタイプに基づいた教育的関わりが、無意識的かつ積極的にされている状態です。
これは、乳幼児には発達的に「男女」という区分が「わかりやすく便利なもの」であり、教育者にとっても、この時期の子どもを集団としてまとめる上で、非常に便利な区分だからです。また、物的環境もジェンダー・ステレオタイプに基づいてデザインされているものも少なくないことも要因です。
さらにここで生じる「男らしさ」の呪いというのが、女の子が(男らしく)運動や積み木・ブロックなどを好むことは“肯定的”に捉えられるのに対し、男の子が(女らしく)ままごとや人形・ドレス等を好むことは“否定的”に捉えられる傾向がある、という点です。
この背景には、やはり「男らしさ」が社会的な基準になっており「男らしい=ステータス・権力」であるということが見えます。
そのため、女の子が活発であるのはステータスの獲得として認められるのに対し、男の子が競争を好まず大人しくしていると、不思議と心配になってしまうのです。
それでは、乳幼児期にはいったいなにをすべきなのか。
僕は、日本の環境でできる関わりとして、保育者自身が男らしさ・女らしさではなく「自分らしく」あることと、子どもを男らしさ・女らしさで評価しないことが最も現実的だと思います。
「〇〇くん、サッカー上手いね。やっぱり男の子だね」なんて言わなくても、その子について語ることはできます。安易に「男らしさ・女らしさ」に頼って子どもをみないことも、これからの保育者には求められるのではないでしょうか。
ちなみに、「男らしさ・女らしさ」と「多様な性のあり方」は共存するのではないか、という視点において考えておきたいのが、#BlackLivesMatter や #MeToo 等のフェミニズム運動などで見える差別の構造問題です。
真に相手を尊重するということは、自身が多数派だから得ていた権利を手放すことが必然になります。
「男らしさ」という概念そのものを否定し分解するのではなく、「男らしさ」を競争意識の高く感情面で鈍感であるといった像から解放することが必要です。
もっと言えば、「男らしさ」は共感能力や同性との親密な関係性を積極的に否定するものであり、その排除から逃れるために男の子は仲間にも弱さを見せず、互いに競争し合うことで“男の証明”をすることになるし、その中でも明確な手段として男性同士の同性愛的な表現や親密性を“積極的に否定”することになるのです。
これが、「男らしさ」が多様な性の形との共存を難しくさせている重要なポイントです。つまり、男の子が「男らしく」あるために、あるいは「男らしく」なるために、ゲイやトランスジェンダーを否定することが極めて自然な行為となっているのです。
だからこそ、多様な性が認められるべきと考えるのであれば、「男らしさ」の解放が必要であり、これまでの感覚での「男らしさ」を再生産すべきではないと考えます。
「男らしさ」の解放については、ぜひ『ボーイズ なぜ男の子は「男らしく」育つのか』を読んでください。切迫した僕の文章に対して、驚くほどハートフルで平和的な手段と実践が数多く示されています。
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