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「九鬼周造」田中久文著を読んで

九鬼周造は明治から昭和を生きた哲学者。
その生い立ちも興味深い。

九鬼周造が、松岡正剛著の『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く (講談社現代新書) 』を読んでる中で登場し気になり購入。
(彼を知らないことへの焦りのような感覚)

ただでさえ、哲学の基礎知識がない中、「九鬼周造」の本は大変難解に感じたのだが、(自分勝手に)記録・記憶に留めたい箇所がある。
特に西洋文化と日本文化の違いについては、自分の関心が高いところだし、彼のように内外で哲学を学んだというバックグラウンドからも、彼が日本文化・精神を何をどのように捉えているのか興味が湧いてくる。



第一章 出会いと別れ

九鬼は名家に生まれるが、母は、岡倉天心と不倫の関係にあり、複雑な家庭環境に育つ。
その幼少期の経験と海外生活、間違いなく多面性、複雑性のある自身に向かい合わざるをえない状況が、哲学者として恰好な環境を作ったのだろう。

フロイトを持ち出すまでもなく、<父>とは、子供にとって一時的に反発の対象であっても、最終的には見習うべき統合の原理の象徴であり、西洋ではどこかで遠く<神>と重なってイメージされる存在でもある。九鬼にとってそうした<父>は、葛藤の対象としても憧憬の対象としても身近に存在せず、関心を抱きながらも一定の距離を置いて存在していたのである。

日本が明治維新を経て、近代化を目指す中で、当時の作家が父親との葛藤の中でその時代背景を描いていたことを考えると(志賀直哉、有島武郎、永井荷風等)、この父親不在の状況は興味深いともいえる。

”「恋しさ」が、対象の欠如を基礎として成立している事実は・・・大きい意味を有っている。それは「恋しい」という感情の裏面には常に「寂しい」という感情が控えていることである。「恋しい」とは、一つの片割れが他の片割れを求めて全きものになろうとする感情であり、「寂しい」とは、片割れが片割れとして自覚する感情である。”


第二章 「いき」の現象学

九鬼は長く欧州で哲学を学んでおり、西洋と日本における精神的な違いを示している。その中に「恥」と「意地」がある。

確かに「恥」とは他者の眼を気にすることであり、他者の期待に自分を合わせることである。そうした点では「恥」とは他者中心の在り方といえる。
しかし一方で「恥」とは自己の誇りが傷つけられたという感覚でもある。 したがってそこには自己の名誉を回復しようとする運動が含まれている。 そうした点では「恥」とは自己中心の在り方といえる。この「恥」の二つの側面は常に表裏をなすものである。他者に対する追従ばかりがあって、自己に対する名誉心というものがなければ、「恥」ということは起こらないし、逆に自己が絶対化され、他者の視線が無視されることになっても「恥」ということは起こらない。

九鬼の説く「意気地」というものは、こうした自他の緊張関係をベースにした「恥」や「意地」という日本人独特の<自己>の構造を論理的・美的により洗練させたものなのであろう。

”「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差し支えない”

このように九鬼は「民族」というものに注目し、「言語」というものによって表現されている各「民族」ごとの文化の特殊性を指摘した。そして、九鬼はこうした「民族」に固有な文化というものは、概念の分析によって完全に把握することは難しく、体験によって会得する以外には理解しえないとする。そのことは「いき」の理解に関してもいえるという。


第三章 永遠を求めて

九鬼も後年は仏教に傾倒していったらしい。
昨今、欧米からも注目されている仏教の考え方を知識としても習得する必要があると感じる今日この頃。

仏教の概念である「輪廻」「無常」、これは人生は周っているという概念。一方、一神教がベースにある欧米社会では、出発点が決まっているので(キリスト誕生等)、時間が進む概念が強いとする。その概念が技術の発展を支えている、得意とする、という事実にもつながる。
ただ、出発点が明確で進化が前提の社会であると、何らかの歪みが生じる。行き過ぎた資本主義、環境破壊等は、そのような中で捉えることができる。そして、そのアンチテーゼとして仏教の考え方が受け容れているのかもしれない。
そんな問題意識がある中で本著を読み、九鬼も同じよう概念を示しているように感じている。

九鬼は東洋においても時間は意志的なものと考えられていたとする。
しかもその上で、東洋的時間の特徴は「繰り返す時間」、「周期的時間」として<回帰的時間>にあるとする。彼はその典型的なものとして「輪廻」を持ち出す。「輪廻」というものは意志が作り出すカルマ(業)によって生まれるものであるから、九鬼によれば「輪廻」という時間の本質も意志というものにあることになる。

九鬼によれば、この二つの「脱我」の主な相違は二点あるという。第一は、<水平的脱我>にあっては未来・現在・過去という構成要素が「連続性」の下にあるのに対して、<垂直的脱我>では未来の「大宇宙年」における今、現在の「大宇宙年」における今、過去の「大宇宙年」における今という各要素は「非連続性」の下にあるという点である。

<回帰的時間>の立場に立てば、現在の生のすべての瞬間は、全く同一の瞬間を過去と未来の無数の「大宇宙年」の中にもっていることになる。これら同一の瞬間はお互いに絶対の断絶によって隔たりながら、しかも全く一体である。

水平的な時間軸に沿ってみたとき、<自己>というものがいかに分裂し拡散したものであっても、垂直的な時間軸においては、瞬間ごとに<自己>は同一性・永遠性を獲得することができるというのである。
その意味でここで九鬼が説いている<自己>の<同一性>とは分裂性・多様性を含み込んだ<同一性>なのである。


第四章 偶然性の哲学

日本人は自然災害と向き合いながら生きてきた。自然を敬い、神として崇めてきた。それは、自然との調和でもあり、大きな概念に身を任せる、ということでは豊かな柔軟性、許容性を育んできたのかもしれない。

日本では因果的にも目的にも偶然のままに生きることを「自然」と呼んで決して否定的に捉えない。西洋では「恣意」として低くみなされるものが、日本ではむしろ自在な生き方として肯定的に捉える傾向が強いのである。
日本において「自然」が「恣意」とみなされないのは、偶然にまかせて自在にいきることがかえって大きな視野からみれば必然にかなった生き方になるという考え方があるからである。つまり日本では西洋のように偶然的世界と必然的世界とが明確に区別されずに、両者が融合しているのである。しかも日本の場合には必然的世界を選びとる意志の自立性を認めていない。


第五章 偶然から自然へ

”我々は飽くまでも日本文化の特殊性を体得して日本主義の立場に立つべきであると共に、広く世界の文化を展望してその優秀なるものを包容するだけの雅量を示さなければならぬということになる。我々に日本国民として日本的性格の自覚がないならば我々自身の十分な存在理由もないことになる。
・・・然しながら、それと同時に外国文化に対して或る度の度量を示すことを怠ったならば日本的性格は単なる固陋の犠牲となって退嬰と委縮との運命を見るであろう。”

九鬼は、日本文化の性質を「自然」・「意気」・「諦念」という三つの要素から成るものとして考えている。
そして、この三者の関係については、「日本的性格」において、「意気」も「諦念」もともに「自然」への随順という形の中に強くはめ込まれているとする。
ところで、森鷗外の姿勢からも「諦念」という概念が使われることがあるが、どこかで繋がっているような気がしている。

諦めとは「自然」のおのずからなるものへの諦めであり、「自然」を明らかに凝視することにとって自己の無力が諦められるのである。
こうして「意気」も「諦念」も「自然」を媒介して一体化しているのである。

九鬼は、「自然」、「意気」、「諦念」の三契機は神、儒、仏の三教にほぼ該当すると考える。つまり「自然」という日本古来の神道の自然主義の上に、「意気」という儒教(その日本的展開としての武士道)的な理想主義と「諦念」という仏教的な非現実主義という二つの外来思想が加わったものが日本の思想だというのである。

日本思想、文化が、仏教や儒教という外来の思想から影響を受けていることは間違いないが(ある意味それがベースにある)、一方でそれを独自に構成してきた歴史がある。そこには「自然」が大きく影響してきていると思うし、それが今なお海外からユニークな存在として評価を受けている部分だと思っている。
色々な局面で見られることだが、外の文化、考えをうまく日本風に取り込み、その上で独自性を作り出す能力、DNA。

九鬼は、西洋文化と東洋文化を比べて、東洋文化は一般に情的文化だとし、さらに、東洋文化の中で、インド文化が思弁的知的性格をもち、中国文化が意志的功利的性格を持っていることに対して、日本文化は特に純情の発露を生命とする勝義の情的文化であるとする。

日本文化の特徴をなす「自然」と「意気」と「諦念」の三要素の内、「自然」は情に、「意気」は意志に、「諦念」は知に、それぞれ対応していると考えているが、この内一番基本にある「自然」というものが情と対応しているということは、日本文化の特色が情的なものであることをよく表しているというのである。

以上

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