九鬼周造は明治から昭和を生きた哲学者。
その生い立ちも興味深い。
九鬼周造が、松岡正剛著の『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く (講談社現代新書) 』を読んでる中で登場し気になり購入。
(彼を知らないことへの焦りのような感覚)
ただでさえ、哲学の基礎知識がない中、「九鬼周造」の本は大変難解に感じたのだが、(自分勝手に)記録・記憶に留めたい箇所がある。
特に西洋文化と日本文化の違いについては、自分の関心が高いところだし、彼のように内外で哲学を学んだというバックグラウンドからも、彼が日本文化・精神を何をどのように捉えているのか興味が湧いてくる。
第一章 出会いと別れ
九鬼は名家に生まれるが、母は、岡倉天心と不倫の関係にあり、複雑な家庭環境に育つ。
その幼少期の経験と海外生活、間違いなく多面性、複雑性のある自身に向かい合わざるをえない状況が、哲学者として恰好な環境を作ったのだろう。
日本が明治維新を経て、近代化を目指す中で、当時の作家が父親との葛藤の中でその時代背景を描いていたことを考えると(志賀直哉、有島武郎、永井荷風等)、この父親不在の状況は興味深いともいえる。
第二章 「いき」の現象学
九鬼は長く欧州で哲学を学んでおり、西洋と日本における精神的な違いを示している。その中に「恥」と「意地」がある。
第三章 永遠を求めて
九鬼も後年は仏教に傾倒していったらしい。
昨今、欧米からも注目されている仏教の考え方を知識としても習得する必要があると感じる今日この頃。
仏教の概念である「輪廻」「無常」、これは人生は周っているという概念。一方、一神教がベースにある欧米社会では、出発点が決まっているので(キリスト誕生等)、時間が進む概念が強いとする。その概念が技術の発展を支えている、得意とする、という事実にもつながる。
ただ、出発点が明確で進化が前提の社会であると、何らかの歪みが生じる。行き過ぎた資本主義、環境破壊等は、そのような中で捉えることができる。そして、そのアンチテーゼとして仏教の考え方が受け容れているのかもしれない。
そんな問題意識がある中で本著を読み、九鬼も同じよう概念を示しているように感じている。
第四章 偶然性の哲学
日本人は自然災害と向き合いながら生きてきた。自然を敬い、神として崇めてきた。それは、自然との調和でもあり、大きな概念に身を任せる、ということでは豊かな柔軟性、許容性を育んできたのかもしれない。
第五章 偶然から自然へ
九鬼は、日本文化の性質を「自然」・「意気」・「諦念」という三つの要素から成るものとして考えている。
そして、この三者の関係については、「日本的性格」において、「意気」も「諦念」もともに「自然」への随順という形の中に強くはめ込まれているとする。
ところで、森鷗外の姿勢からも「諦念」という概念が使われることがあるが、どこかで繋がっているような気がしている。
日本思想、文化が、仏教や儒教という外来の思想から影響を受けていることは間違いないが(ある意味それがベースにある)、一方でそれを独自に構成してきた歴史がある。そこには「自然」が大きく影響してきていると思うし、それが今なお海外からユニークな存在として評価を受けている部分だと思っている。
色々な局面で見られることだが、外の文化、考えをうまく日本風に取り込み、その上で独自性を作り出す能力、DNA。
九鬼は、西洋文化と東洋文化を比べて、東洋文化は一般に情的文化だとし、さらに、東洋文化の中で、インド文化が思弁的知的性格をもち、中国文化が意志的功利的性格を持っていることに対して、日本文化は特に純情の発露を生命とする勝義の情的文化であるとする。
以上