終わりのその先 第4話【お仕事小説】
ニート
心の中とは裏腹に、秀樹は
「ああ今日は、中華のお店で。さっきはどうも」と言い、尚子は
「あら、どこかで知り合い…?」と笑顔になった。
浮き立つような、はにかんでいるような素振りが、神経を逆なでする。
店長とやらのイケメンおやじは
「ああ、先ほどはどうも」と笑顔になり
「いやいや、お昼に中華の食堂で隣に座ってたんだ」とだけ言った。
そして「それじゃ。失礼します」と秀樹に言って、尚子をつれて店の奥へ行ってしまった。
どうも一般的には好感度が高そうな、いけ好かないおやじだ。
大体、尚子と何やら視線をからめていなかったか?
尚子も尚子だ。
人の嫁さんだというのに、店長とベタベタして。
家に帰ると、翔馬が一人でゲームに興じていた。
いや、一人じゃないのか?
「ひゃーっほっほ!」とか
「くっそー!!」とか、変な奇声を上げているのが聞こえてきた。
あいつ、とうとう頭がおかしくなったのか?
俺だって悩みもあれば、愚痴もこぼしたい。
子ども部屋の前の廊下にたたずんで、心の中で翔馬に話しかけてみる。
お前も社会に出てみて、思ったようにいかなくて挫折感や悩みをもったんだろう。
俺だって、新採用の頃には挫折の連続で劣等感の固まりだったもんだ。
でも、何とか石の上に3年どころか37年もいたんだぞ。
なあ、分かるか。翔馬。
お前は、何かっていうと「父さんは成功者だから違う」って言うけど、父さんだって失敗ばかりしてきて、やっと今の立場を手に入れたんだ。
それでさえ、もう間もなく下ろされるんだ。
もうじき、どっちに行くか決断しないとならないんだ。
なあ、翔馬。
誰か、父さんの相談にも乗ってくれないか?
誰か…。
気がつくと、子ども部屋の前で泣いていた。
涙を流したのは、久しぶりだった。
人の気配に気がついて、翔馬がドアの方を振り向いた。
秀樹は涙を悟られまいと、ゴホゴホと咳き込みながら
「お前、ゲームは一人でしてるのか?」と尋ねた。
翔馬は、きょとんとした顔をして
「いや、ゲーム仲間と通信してるんだよ」と答えた。
良かった…。
頭がおかしくなった訳ではなかった。
「ゲーム仲間って、誰? 大学か高校の友達か?」
「いや、誰か知らない」
…知らない奴と通信でゲームして、あんな奇声を上げているのか…。
良かった、とは言ってられないな。
これが、いわゆるニートの始まりかもしれない。
民間人材登録会社
定年延長をして、役職定年で係長になることに甘んじるか、部長のまま退職して外部に活路を見出すか、早いとこ方向性を決めなければならない。
なかなか妻にも相談できないし、秀樹は自分で考えて、民間の人材登録会社に登録をすることにした。
テレビのCMで「驚きのいい条件のスカウトが来る」と言っているではないか。パソコンで、
“ハイクラス転職が見つかる”『プラチナ・ビズ』という人材サイトと
“スカウトが圧倒的多数の”『ビジネス・マンパワー』という人材サイトに登録をした。
自分の学歴から職歴、どのようなことができるかPRポイントまで、まるで大学生のようだと思いながら、今だけの辛抱だと気持ちを奮い立たせて、マイページという所に一つ一つ入力していった。
スカウトが来て、仕事が決まるまでのことだ。
尚子の仕事
「今日は、店長と中華屋さんで会ったんだってね。聞いてビックリしたわ」
尚子は、夕飯を食べながら今日のことを持ち出した。
「ああ、そうなんだ。尚子のところの店長さんだったんだな」
「あなた、黒い担々麺を白いのに作り直させたんですってね」
どことなくトゲのある言い方に、むっとした。
あいつ、やっぱり詳しく話したのか。
「だって、注文を間違えたのは、店の方だ」
「まあ、そうだろうけどね」
口の端に皮肉な笑いを浮かべている尚子は、これまでの俺が知っている尚子ではないようにも思える。気のせいか?
視線をからめる二人の親密な様子が、脳裏をよぎった。
「俺さ、実は…」
言いかけて、秀樹は言葉をのみ込んだ。
「何?」
「うーん」
「途中まで言いかけてやめるのは、感じ悪いよ。
言うことあるなら、ちゃんと言って」
「俺の年齢から、定年延長が導入されるっていうんだけど…」
「あらそうなの。良かったじゃない」
「いやそれがさ、定年延長で役所に残る場合には、係長に降任するんだ」
尚子は役所の状況には疎いが、それでも少しだけ驚いた。
「係長に? へー、部長から降任するの」
「そうなんだ。それで、どうしようかなって迷ってるんだ。
いや、もう管理職になってから十数年も経ってるから、実務をやるとなると、また一から覚えないとならないし、まわりの人もやりづらいんじゃないかなって思うんだよ」
「ふうーん」
「どう思う?」
「さあ…。私には、管理職から実務に下りるってことが、そんな大きなことなのかどうなのか分かんない。ずっと実務やってるし」
「まあそうだな」
「それに、まわりがやりづらいっていうよりも、あなたがやりづらいってことなんじゃないの?」
う…。
どうしてこう、核心をついてくるのか、うちの嫁さんは。
「ああ、そうそう。言っておくわ」
「何を?」
「私、今仕事がけっこう盛り上がっててね。帰り遅くなることが、多くなるかもしれない」
「ふうん。仕事って、さっきいた、あのハワイ特設コーナーとか?」
「そうね。ハワイも行きたいなと思ってるんだけど」
「ハワイ? 行ってくるか? 俺も年休は余ってるし」
がぜん乗り気になった秀樹に、尚子は手を横に振って
「違う違う。職場で行きたいな、ってこと」と言ってきた。
「えー? 普通、職場でハワイって行くか?
職場で行くのは、近場の温泉て相場が決まってるだろう」
「あなたは、考えが古いのよ。
今のハワイ特設コーナーだけれど、単発のものに終わらせないで、フラとか歴史とか、いろんなテーマをずーっと続けていけたら面白いんじゃないか、って店長とも話しているのよ」
ふん。また店長か。
あなたは、考えが古い、か。
元々は、秀樹と尚子が知り合ったのは、市の税務部で秀樹は若きホープ職員として期待を集めている頃、尚子が臨時職員で半年間だけ同じ職場に、事務補助の仕事をしに来たことがきっかけだった。
当時は、正職員と臨時職員が職場結婚して、臨時職員は退職する、というパターンが多かったものだ。もちろん、圧倒的に秀樹の立場が上だった。
子ども2人を出産、育児している間は、尚子は専業主婦だった。
子どもが小学校の高学年になったぐらいから、本好きだった尚子は書店でパートを始めた。
そして7年ほど前からは、正社員になった。
でも、俺の方がずっと立場が上だったのだ、と秀樹は心の中で思う。
なんで、こんなふうになっちゃったんだ?
――――第5話へつづく