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終わりのその先 第3話【お仕事小説】

〔これまでのあらすじ〕
上浜市の部長である東郷秀樹は、定年延長と役職定年の対象となることを知らされ、市に残り係長に降任するか、退職するか悩んでいる。
そこへ来て、息子の翔馬は会社をずる休みしているし、娘の里菜が男とキスをしているところを目撃。妻尚子の帰りが遅い事も、気にかかる。
さらに保護課の部下が、受給者から市への返還金を着服したことが発覚した。だが課長から秀樹への報告が遅く、秀樹は怒りをあらわにした。

読んでみる→〔終わりのその先 第1話第2話

横領事件


 保護課の横領事件が発覚して以来、職場の雰囲気が明らかに変わった。
 ピリピリした緊張感が漂い、全体がナーバスな空気に包まれた。
 区長や課長とともに、市長と副市長の所にも説明に入らざるを得なかった。市民の信頼を損ねる不祥事に、市長は落胆した様子で明らかに厳しい表情を見せた。

 報道発表は、事件の概要を記載した紙の資料を市政記者に配付することとし、取材が入れば対応するということになった。
 報道発表と取材がおさまるまでは、打合せや状況の確認、関係各所とのやり取りなどで、定時には帰ることができない状況がつづいた。

 また、警察には被害届を提出し、職場に家宅捜索が入った。
 重苦しい空気が漂った。

 妻の尚子に、食事をどうするかの連絡も入れづらく、さっそく約束を破るという羽目になっていた。

 保護受給者の傷病手当金を着服したケースワーカーは、職場からの電話にも出ずしばらく雲隠れしていたが、とうとう職場に出てきた。

 中川大介、36歳。
 横領事件でその名前を聞いたとき、秀樹は驚きを隠せなかった。
保護課、いや厚生福祉部の中でもひときわ優秀だという評判の職員で、とてもそんなことをしそうに思えなかったからだ。
 日頃、次席として係長をサポートし、係長不在のときには代決をすることはもちろん、新卒の職員にも仕事を教え、よく世話を焼いてやっていた。

 なぜだ――。
 保護課長の下村が、別室で中川になぜこんなこと、業務上横領などという大それた犯罪に手を染めたのか動機を問いただすと、彼は、昨年離婚した妻の元に置いてきた2人の子どもに、養育費を送らなければならないのだと涙ながらに話したのだという。
「結構悩んでいたんだと思います。私は全然気づいてあげられなかったですが…」
 下村は、彼と二人きりで話をしたことで、すっかり彼の心情に理解を示しているように見えた。

「え、でも、そんなことぐらいで横領する?」
 秀樹の強い口調に、彼女はたじろいだ様子を見せ、鼻をぐすぐすさせながら「普通はしないですよね」とだけ言った。
「100万に目がくらんだってか。おそらく懲戒免職は免れないだろう。
 そうすれば、退職金はゼロだし、履歴書に残るから他に働き口なんか見つかるかどうか」
 吐き捨てるように、秀樹は言った。
「何か他にも、隠していることがあるんじゃないのか?」
「さあ…。嘘をついているようには見えませんでしたが」
 人の良さそうな下村は、秀樹の剣幕に圧倒されているようにも見えた。


一難去って、また

 横領事件は、中越区の厚生福祉部に深い爪痕を残した。
 それでも、報道発表をして、新聞社3社と地元のテレビ局2社に報道された後、少しすると事件のボールは、中越区の厚生福祉部を離れ、総務局人事部と検察の方に渡された。
 この後は、人事部で懲戒処分の量定がなされるのを待つこととなり、刑事事件として起訴されることにもなるだろう。

 5月後半のよく晴れた日だった。
 今日は、久しぶりにランチを外に食べに行くとするか。秀樹は、財布と携帯だけを持ち、それはズボンのポケットを不恰好に膨らませることになるのだが、そんなことはお構いなしに役所の外へ出た。

 中越区役所の庁舎は街中にあるので、一歩外に出れば、昼時はビジネスマンや会社勤めの女性社員が行き交う場所に足を踏み入れることになる。
 秀樹は名もない一人のビジネスマンになれる、昼のひとときが好きだ。

 気分良く、いつもなら来ない中華の店に足を伸ばし、テーブルに着くと、担々麺セットというのを注文した。
 小籠包とザーサイもセットになっているそのセットは、白、黒、赤と3色の中から担々麺を選べるという。
「あー、じゃあ白でお願いします」
「はい、白ごま担々麺のセットですね。ありがとうございます!」

 愛想のいい若い男性店員が、しかし運んできたのは、黒い担々麺だった。
 スープの表面が黒光りしているそれを目にして、秀樹は
「あれ、白を頼んだんだけど」と断った。
「あ、申し訳ありません。作り直します!」
 秀樹の頭をかすめたのは、昼休みの時間内で間に合うかな、という心配があったくらいで
「すぐ作り直しますんで」と頭を下げる店員に
「そう。じゃあ急いで」と、作り直させることにした。

 と、その時。
 隣のテーブルに座っていた男性が、
「すみません、それを僕がいただいていいですか? 捨てちゃうんなら、勿体ないですよね」と、店員に言った。
「え、でもお客様も白担々麺をご注文で…」
「自分は、白でも黒でもかまいませんよ。
 せっかく作った物を無駄にすると勿体ないから。黒も美味しそうだ」
「ありがとうございます!」
 助け船を出された店員は満面に笑みを浮かべ、隣の客に黒担々麺を差し出した。
 隣の客は「いただきます」と、秀樹に向かって笑顔で会釈して、美味しそうに食べ始めた。秀樹は、自分が黒を食べれば良かったのかな、と少し悔やんだ。
 隣の客は40代後半くらいで、雑誌から出てきそうな洒落たアイボリーの開襟シャツを着ていた。中年にしてはイケメンだ。妙に好感度が高くて気にくわない。
 白担々麺を作り直させたのは、大人げなかったのだろうか。

 中華の店を出て、職場に急いで帰る道すがら、大きなネットカフェのビルから翔馬が出てきたところに出くわした。
「翔馬!」
「お前、今日会社は?」
 一瞬逃げようとした息子の腕をつかむと、彼は観念したように「辞めた」と一言呟いた。
「え? 辞めた?」
「うん」
「お前、どうするつもりだ!
 でも今時間ないから、あとでゆっくり聞こう」

 翔馬はそれには答えず、手を振りほどいて人ごみの中へと消えていった。


イケメン

 秀樹は、夕方仕事を終えると、尚子も働いている能美堂書店に立ち寄った。
 息子がこのままニートになってしまわないよう、親として何か生き方や働き方の礎にできるような本がないものかと考え、市内で一番大きな能美堂書店なら良書に出会えるのではないかと思ったからだ。
 一方で、尚子が最近熱心に入れ込んでいる書店の仕事がどんなものか、見てみたいという気持ちもあった。

 天井まで届きそうな、背の高い書棚の入り口にはアルファベットと数字と共に、「生き方」や「ビジネス」など分類が整然と表示されており、さながら巨大な図書館のようだ。
 稲盛和夫さんの本など、世の中に影響を与えた数々の書を手に取り、結局「働くことの意味」という1冊の本を買うことにして、レジまで向かった。

 5フロアにまたがるこの書店は、レジは1階と地下1階にしかない。
 4階からエスカレーターで、未会計の本を持ったまま階下に降りていくと、2階で尚子の姿が見えた。
 特設コーナーの脇で、上司と思われる中年男性と、何か真剣に話をしているようだ。
 秀樹は、さりげなく2階でエスカレーターを下り、二人になるべく背を向けた格好で、書棚を見るふりをして二人がいる区画の隣の書棚まで移動した。
 話している内容までは聞こえないが、ハワイやフラをテーマにした特設コーナーは華やかな色彩を放っており、尚子が趣味で習っているフラには興味はないが、ハワイには興味のある秀樹としては、本当ならそのコーナーをじっくり見てみたいところだ。

 二人の様子は、何やら親密に見える。
 本当に、ただの書店員と上司という関係だけなのか?
 先日、尚子が遅かったのも、職場の懇親会というのを鵜呑みにして良かったのか?
 書棚の低い場所に平積みされている本を見ているふりをして、思い切って二人の立っている区画に近づいていった。

「あら、今日来てたの?」
 尚子に見つかった。
「ああ、ちょっとね。職場の帰りに立ち寄ってみた」
 彼女は、横に立っている上司と思われる男性に、秀樹を「夫です」と紹介し、秀樹に「店長なの」と言った。
「主人です」とは言わないんだな、と頭の片隅で思った。
「いつもお世話に…」と言いかけて、店長の顔を見て「あっ」と驚いた。
 その日の昼食で行った中華食堂で、店員が間違えて秀樹に持ってきた黒い担々麺を、秀樹の代わりに食べたイケメンおやじだった。
 こいつか…。


――第4話へつづく








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真夏 純 Jun Manatsu
子育てのヒントになるようなことや読んでホッと安らいでいただける記事で、世の中のパパママお爺ちゃんお婆ちゃん👨‍👩‍👧‍👦を応援したい📣と思っています! ありがとうございます。