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外出自粛でも旅の気分

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旅の想い出をモニターに読む、それで少し気持ちが軽やかになる、旅の気分を持てたらと思います。 新型コロナウイルス、武漢肺炎の蔓延で三密回避・外出自粛が続きます。家に居続けるって、そ…
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白い太陽《48》外出自粛でも旅の気分

コロナ禍の続くある朝、その日は出勤日で静かな東京を歩いていた。見上げると空は白く雲で覆われていた。少し雲の薄いところに太陽が来るとさらに白い丸が見える。雲の厚さは不均等なので陽が白い真円になる訳ではない。が、そこに太陽があることは確かに判る。冷たい白色。 この朝の白い陽を、確かにずいぶんむかし見た。空を埋める白の濃淡ほどのあやふやな記憶をたどると、それは1970年代の朝、だった。くすんだ赤色に塗られた常磐線の電車から外を見ていた。空の低い位置に白い陽があった。私は中学生で、

ソビエトの列車《47》外出自粛でも旅の気分

1989年の6月です。つまり31年前。現在はウズベキスタン共和国になった、当時ソ連のブハラから首都タシュケントまで列車に乗りました。旅行ノートのメモにはブハラ18:30発、タシュケント翌朝7:30頃とあります。ソ連時代のルールで旅行手配と支払はすべて出発地で済ませておくことになっていました。それでも、現地の外国人旅行者窓口のインツーリストで受取る列車の切符は出発前と時刻が違いました。が、そんなことを気にしていたらソ連旅行はできません。何時間違う列車であろうと目的地と乗車クラス

ハバロフスクの想い出《46》外出自粛でも旅の気分

ロシア極東の大都市ハバロフスクには複雑な想い出がある。まだそこがソ連という国だったころに新潟から飛行機で着いた。そのルートは西側諸国から極東ソ連に出入りする主要なものだった。まだソ連内にあった中央アジアのオアシス都市を訪れるために往復ともこの都市に立寄り1泊したのだ。だから、ハバロフスクに特段の思いも知識もなかった。 帰路タシュケントから長距離夜行便でシベリア上空を飛んでこの都市に着いた。街に出るとヨーロッパ風の建物やロシア正教の教会が目に入る。大河アムール川の河畔では水着

昔の風景《45》外出自粛でも旅の気分

休日でも旅のできない昨今なので、昨秋に手に入れたフィルムスキャナーでネガやポジフィルムをデジタル化しています。私の場合は2001年まではフィルムを使っていました。フィルムは36枚撮りで1本。旅の目的や長さで、フィルム本数と感度を決めます。36枚の写真を撮るだけのフィルム1本でも結構かさばります。今のSDカードに1,000枚以上入るとして、36枚だけのための体積は何十倍にもなります。 そのフィルムをスキャナーで1枚1枚デジタル化します。退色は多少コンピューターで補正できますが

モロッコ《44》外出自粛でも旅の気分

スペインからジブラルタル海峡を渡ってきた水中翼船がタンジールの港に着いた。桟橋は午前の海霧に煙って人々がボーっと幻影のように見える。それは霧のせいだけでなく、モロッコの男性は身体中すっぽりと袋を被ったような服装をしているのだ。朝方発ったアルへシラスの洋服の人々となんと違うことだろう。 下船し桟橋を歩いていると声を掛けられた。先ほどの袋のような服を着た男性のひとりからである。自分は政府公認のガイドである。ほら、このように免許も持っている、と首から下げたカード状のものを示してい

30分空の旅《43》外出自粛でも旅の気分

夕方が近づき、空の青がくすみはじめたころに豊岡駅から乗ったバスは但馬空港に着いた。小高い山地を切り開いた空港だけあって、周囲には林以外ほぼ何もない。丹後の旅を終えて天橋立から鉄道で豊岡に出て、この空港に来たのだ。東京に帰るのに酔狂なルートを選んだものだが、但馬空港から唯一定期便が就航している大阪伊丹行きに乗れば、伊丹から東京便は多数飛んでいる。豊岡から新大阪へはJRの特急で3時間近くかかるが、飛行機なら30分ちょっとだ。 滑走路周辺には何もないので見通しはいい。吹き流しがゆ

ベルリン20世紀の旅《42》外出自粛でも旅の気分

ビュルツブルクから特急ICEを乗継いでベルリンに接近するするのは西側からとなる。かつて存在した東ドイツという国の中に浮かぶ島のような西ベルリン地区をいま通っているのだ。東西冷戦が自分の記憶の中にリアルにある世代だからだろうか、微かな緊張をもって車窓を眺める。私の乗車券に記された下車駅は「Berlin Alexanderplatz」、東ベルリン地区なのだ。今朝まで滞在していたロマンチック街道北部の歴史都市と異なり、ここは20世紀の冷戦最前線の場所だったところである。 いうまで

有明海の干潟《41》外出自粛でも旅の気分

熊本を車で出るとカーナビには従わずにJR三角線の走る宇土半島北岸ルートをとった。それは半島先端の明治の港湾遺構を残す三角西港を見るのに便利なことと、有明海を隔てて島原半島を眺めたかったからだ。これが意外な展開となる。 国道57号線を走るとすぐに道路は三角線と並走し、やがて右手は海景で一杯となった。そしてそこには息を呑むような光景が広がっていた。もちろん、海である。が、いままで各地で見た海岸と全然違って、砂のような泥のような浜が遠くまで続いている。干潟だ。減速して停める場所を

ソイという街路 バンコク《40》外出自粛でも旅の気分

タイの首都バンコク。このアジアの大都市に初めて降り立ったのは2017年のことだった。元々あまり強い関心がある土地ではなかったのだが、そのときは仕事で来ることになったのだった。そのため、街に何の知識もない。まあタイ料理は美味しそうだし、チャオプラヤー川が蛇行して流れる水の都くらいのイメージはあった。それから、仏教国ということ。だから、僅かな自由時間に街を歩く術もない。 往路のJALで機内誌を眺めていたらちょうどバンコクの記事があった。そんなこともあるのだと読んでいると、興味深

鹿島灘 北浦《39》外出自粛でも旅の気分

2014年のお正月、初めて来た鹿島神宮。ここから鹿に乗って神様が奈良春日大社にいらしたと思うと感慨深いもの。お参りのあとは鹿島灘に沿って国道を北上。もちろん帰路ルートとはかなり方角が違う。少し時間の余裕があるので、海を見たかった。房総の九十九里浜と違い、鹿島灘はこれといった観光的な場所はない。したがって、国道から浜辺へのルートも整備されている訳もなく、一部の生活道路があるだけ。 それでも長い長い砂浜と所々にT字型に海に突き出す不思議な突堤が見られる。跡で調べるとこれは離岸堤

石炭の匂い イスタンブール《38》外出自粛でも旅の気分

夕刻、石畳の坂道を降りてゆくとき微かな石炭の燃えた匂いがした。寒い、冬のイスタンブール。4、5階建てだろうか、集合住宅に太い煙突が見える。暖房は石炭ストーブなのだ、と感じた。1986年のことだ。 冬の街はどんよりとした湿気の多い空気に覆われているが不快な訳ではなくそれはそれで美しい風景であった。何百年も使われてきたであろう幅のあまり狭くない街路は、緩く上下しあちこちで曲がる。イスタンブール旧市街はマルマラ海、金角湾、ボスポラス海峡に囲まれた岬にある。この岬がヨーロッパの東端

繰返して同じところへ《37》外出自粛でも旅の気分

もう十年くらい毎年秋に北海道オホーツクの網走に旅している。北海道好きの同僚が何となく網走に行こうよと呟いていて、あるときそれがまとまった。それ以来、呟きの主が幹事となり、数人が網走に集まる。 ルールは至極簡単。初夏のある日、幹事から「〇月〇日19:00〇△に集合」という通知eメールが届く。〇△には毎年違う居酒屋の名が入る。参加者は各自で交通と宿を手配して、あとは指定時刻に指定の店に集まる。単純割り勘で二次会なし。秋のある日、網走の居酒屋で海の幸を突っつきながらしばし語らう。

大江山と気動車《36》外出自粛でも旅の気分

京都府の福知山駅を発車したバスは徐々に坂を登ってゆく。丹波と丹後の国境の峠をトンネルで抜けるとあとは坂を海まで駆け降りるだけだ。目指すは与謝野町加悦(かや)である。あっ、地図を見ると右にある山は大江山と記してある。小式部内侍による百人一首の歌の山だ。 大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立 高校生のころ古文で暗記したあの歌である。若いころの努力は記憶に残る。 ゴーッと軽い音で走るガラガラのローカルバスの座席で、自分に感動していた。確かに加悦の先には天橋立があり、そ

スイス高山ハイキング《35》外出自粛でも旅の気分

アルプスの国スイス。国土の多くが高山地帯にあります。チューリッヒ、ジュネーブ、ベルンなどの都市も周囲は森や山。安全で緑溢れるイメージは裏切られません。 「Top of Europe」と称するヨーロッパの鉄道最高点ユングフラウヨッホ駅は標高3,454m。ユングフラウとメンヒの鞍部にあるこの駅から外に出ると南北双方に氷河が見えます。雪と氷の壮大な景色が手軽に見られ、よくぞこんな高地まで鉄道を造ったものだと感心してしまいます。終点のここから列車で下山を始めるとしばらくは岩山をくり