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火星期から木星期に移行していく中で感じた事をつらつらと書いてみる

今年の節分で大運天中殺を抜けたが、以降もあれこれと落ち着かない日々を送っている。
こういう大きな切り替わりの時期は色々と起きるものだと思うが、私の大きなイベントはまだ終わらない。
大運天中殺は終わったが、今度は火星期から木星期にまつわるトラブルが起きている。
そのトラブルにどう対処したらいいのだろうと考えたり調べたりしているうちに感じたことや思ったことを書いてみようと思う。

火星期、木星期、というのは西洋占星術の年齢域と言う考え方。
複数の捉え方があるようだが、概ね35〜45歳が火星期、45〜55歳が木星期だ。
そして私は現在45歳で、まさに火星期と木星期の間にいる。
こういう切り替わりはトグルスイッチのようにON /OFFで切り替わらず、ゆるやかなグラデーションで少しづつ影響が出ると言われている。
だが私は「あれ?これまでのようにいかないぞ?!」とガツンとぶつかって、これが火星期と木星期の切り替わりということか?!と気づいた。
本当は事前に兆候が出ていたのかもしれない。
こう言う時、お知らせ現象が起きると聞く。
私は他者からガツンと来られるまで気づけなかった。
だが、気づいたのなら対処していくのみである。

火星期は行動の星である火星のエネルギーを使っていく時期だ。
太陽期に自分がどういうことをしたいかに気付き、火星期でガンガン自分を押し出していく。
火星は使い方によっては暴力にもなる。包丁がおいしい料理を作る道具にも、人を傷つける道具にもなるのと同じだ。
火星のパワフルな力を使いこなす練習をするのが火星期。
火星を使いこなすと、自分自身を守ったり、他者を守ったりすることができる。
火星期は、自分にとって大事なものを守り育てるための力を手にいれる時期だとも言える。

私の火星は魚座にある。
はっきり言おう、使い方が分からなかった。
今思えば、35歳くらいの頃に占星術やスピリチュアルに出会って、色んな占星術やスピリチュアルのサイトを読み漁ったり、松村先生の本を色々買って読んだりしていたので、これがそうなのかもしれない。
あと、取り組んだ事として、魚座らしいふわふわとした服装をするようになったこと。色も淡いピンクや白メイン。
上品な女性らしい格好は、それまでの私を知っていた人からすると驚きだったと思う。
実は、こういう女性的な服装には抵抗があった。
20代の頃に何度かセクハラにあって、女性らしい格好をすることが嫌になったというのもあるが、根本は、まだ10歳にもいかない頃に通りがかりのおばさんに言われた言葉だ。
親戚が送ってくれたフリルたっぷりの真っ白なパフスリーブのワンピース。
赤毛のアンに出てきそうな、綿素材で素朴ながらも愛らしく上品なワンピースに私は一目惚れした。
そして身に当てて「うーん、似合ってない気もする」と思いながらも着たい気持ちを優先した。
そして先般の通りがかりのおばさんだ。
嘲笑の表情を浮かべて「似合ってない」とのたまったのだ。
少女の頃の自分はおおいに傷つき、以降、こういったガーリーな服装から遠ざかることになる。
私は太陽も魚座にあり、太陽&火星が魚座にあるということは、こういうふわふわした女性らしい格好は自分のネイタルに合ったあり方の一つだ。
傷ついた女性性の癒しと欠けたピースを取り戻すための行動だったが、今思えば、積極的な行動=火星的と言えるわけで、意識せずに火星のエネルギーを使っていたのかもしれない。

そして火星期に取り組んだもう一つのことが、「自分軸」を持つ事だ。
火星期といえば、自分をガンガン打ち出していく時期なのだが、この時期の私は迷走に迷走を重ねていて、自分のやりたいことや方向性がわからなくなっていた。
追い詰められて追い詰められて、清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちでスピリチュアルセッションを受けて、出てきた言葉が「自分軸を持つ事」だった。
これについては今も自分軸を持てているのか分からない。
太陽も火星も魚座で、かつカラーホロスコープでは海王星が一番強かったので、その辺がふわ〜っとしているのかも、と思っている。
だが、先日仕事であった面談で「凝り性だよね。こだわりが強いよね」と言われ、これが自分軸なのかな?と思った。

で、木星期だ。
木星期は火星期から大きく様相が変わる。
火星期が凸なら、木星期は凹。
まるでシーソーのように、大きく上がったものを元の位置に戻すように反対の行動を促す。
木星の持つ意味は「受動的」「肯定性」。
火星の「行動的」「否定性」と反対の意味を持ち、火星が狭い範囲を表すのに対し木星は全体的。
火星期が自分を生きることであるのに対し、木星期は社会の一部となって生きること。
ミクロとマクロ。
久しぶりに松村先生著「完全マスター 西洋占星術」を紐解いたが、今読むととてもしっくりくる。
私に突きつけられたのは、社会の一部になるための行動を取りなさいよ、ということだ。
いつまで火星期の行動を取るのだ、と。
もう次の流れが来ているのに、その流れに逆らったからこそガツンとショックを受けるようなことが起きた。
よそ見をしていて川の中央にある岩にぶつかったようなものだろう。
私はアセンダントが獅子座なのでナチュラルに態度がでかい傾向がある。
偉そうと言われたことがあるタイプだ。
そういう突出したものは集団には適さない。
仕事をするにはアセンダントを意識するといい、それが相手が抱く第一印象だと以前見たブログにあった。
なのでそれを意識して行動していたのだが、それが木星期に入って集団には馴染まないからこそ引っ込めなさいと現象が起きたのだろう。
上がりすぎたもの、行きすぎたものはバランスを取るために反対の現象が起きる。
行きすぎたものといえば、私の場合「おしゃべり」もある。
私の命式には火の星が3つある。鳳閣星が1つに調舒星が2つ。
漏星の文字の通り自分をダダ漏れにする傾向があり、また家庭の育ちの影響か、嘘をつくのが苦手で「嘘も方便」という言葉が苦手だった。
仏教の考えの「嘘も方便」とは意味が違うと思うが、必要に応じて誰も傷つかない嘘をつく、流す、ということに対して拒絶反応があったのだ。
だが、それは小さい集団ではどうにかなるが、大きな集団にあっては処世術として大事だし、無駄な摩擦を起こさないためにも必要なことだ。
大人であれば当たり前だろうが、私はそれと向き合ってこなかった。
だが、そうする必要がある状況が訪れた。
奇しくも木星は12ハウスにある。
「12ハウスでよくない事が起きた時はその人にとって根本的に欠けた要素が影のようにして浮上してきたのだ」と「完全マスター 西洋占星術」に掲載されているのだが、まさに自分に欠けた部分を補うべく起きたのだと思う。
必要なタイミングで必要なことが起こると言われる通り、今がそのタイミングなのだろう。
スピセッションで木星12ハウスの話をしたら「まったく準備ができていない!」と言われたが、まさに12ハウスの恩恵を受けるには要素が欠けていた訳だ。
本来なら木星期は穏やかになるという。
だが私の12ハウス木星の場合は、必要な要素をそろえたら、ということになる。
木星の次の土星に至っては1ハウス乙女座だ。
そういう意味では木星期の先にある1ハウス乙女座の要素を獲得するための下地を作るのが現在のミッションなのかもしれない。
そう。私は太陽魚座。
つまりヘリオセントリックでは太陽は乙女座にある。
ヘリオセントリックの太陽に至るために、そこに至るために必要なアイテムを獲得すべく新しいステージに入ったのだと思うと胸が熱くなる。
火星期が己への執着なら、木星は執着の手放し。
「幼年期の終わり」という言葉が頭によぎる。
SFで有名な作品で途中まで読んで止まっているが、この作品のストーリーと同じくもっと大きな世界に向かうためのことが起きているのだと思う。

私の太陽のサビアンは魚座30度。
今世で自分を完成させて次の周回に進むと決めて生まれてきたのだと思う。
幼い自分から大人に脱皮する。
もう40代にもなってそんなことしているのかと言われそうだが、今だからこそこの現象に立ち向かえるのだと私自身は思う。以前の私では無理だった。
必要な時に必要なことが起きる。
それに挑む時が来たから、新しいステージが開幕したのだ。
私の前に現れたのは以上のようなことだが、木星期に展開するステージは人それぞれだと思う。
算命学の年運では、私の月柱は害。日柱に至っては対冲が巡っている。
つまり過去に積み上げてきたことが壊れるタイミング。
これまでのやり方が通用しない、生まれ変わるタイミングということだ。
木星期に入ったとたんに日柱に対冲が巡るのだから、西洋占星術と東洋占星術のリンクっぷりは面白い。
私の場合、2年後に年運の方の天中殺が来る。しかも大半会を連れて。
そのためにも、今は仕込みの時期なのだと思う。

こうして一つずつ向き合って調べていくと、必要なことが必要な時に起きただけで、怖がることはない、むしろ順調に進んでいるのだと分かり納得するばかりだ。
冥界巡りを経て生まれ変わるためにも頑張ろうと思う。


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