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キラーハピネス

「贅沢は敵だ!」
「欲しがりません勝つまでは」
その言葉は、高校時代の日本史の教科書に書いてあった。戦時中であった日本の『国民精神総動員』という政策。その中の標語にあった言葉が、今も俺の中で強烈な印象を残している。

「最高の贅沢をさ、してみたくない?」
目の前の美来が興奮した様子で、語りかけてくる。目がキラキラしていて、希望に溢れた顔。何だって、俺の恋人はすぐ突拍子のない事を言う女の子だ。
「贅沢…って何だ? 何か欲しいものでもあるのかよ。」
喫茶店の外を見れば、街はイルミネーションに彩られている。俺達はデートの時必ずこの、繁華街の外れにある純喫茶で待ち合わせをする。尖端邸(もだんてい)なんて名前の癖に、時が昭和初期で止まった様な雰囲気の店。年季の入った飴色のテーブルやシルバーの砂糖の入れ物、窓ガラスの安っぽいステンドグラスなど初めて訪れた時から、この店は俺達の好みを鷲掴みしている。
「違うよ! クリスマスとか、そういう話じゃ無くてさ。もっとこう…スペシャルな体験、とでも言うのかな。いや、スペシャルなんて言葉じゃ言い表せないかも。とにかく今、最高に幸せ! って感じる様な事や物が欲しいの。」
俺は頭を抱えた。そんな抽象的な答えでは全く理解が出来ない。ただでさえ今の俺は、目前に迫った卒論の提出に思考の大半を費やしている。大学の文学部で日本史を専攻した俺は、桜が咲く頃には中学校の社会科教師になる事が決まっている。その為には絶対に、卒論は完成させなければならない。煮詰まった頭をスッキリさせたくて美来に会いに来たのに。逆に頭を使わせるとは、これでは何の意味もない。
「拓望は、最高の贅沢って何だと思う?」
ロイヤルミルクティーの入った華奢なティーカップを両手で持ちながら、大真面目に質問してくる。金の縁取りのされた百合の花の様な形のカップは、この店で美来が一等お気に入りのものだ。
「うーん…。今、美来が飲んでいるミルクティーも贅沢じゃないか? 戦時中のことを考えてみろよ。お前がそうやって呑気にミルクティーを美味しいと思えるのも、今の日本が平和だからだろ。」
「出た! 歴史ヲタク。拓望っていつもそう。確かにそうなんだけどさ。現代の日本では、こんなこと当たり前じゃない?」
歴史ヲタク、という言葉は心外ではあるが確かにそうだ。戦後日本は急成長を遂げて、先進国の仲間入りを果たした。けれども国民性、とでも言うのだろうか。結局根本は変わらず、奥ゆかしい。遠慮がち。そんな控えめである事が美学とされているのだ。俺はその先人達が創り出した姿を美しいと思い、日本史を学んでいる。
「後はそうだな…。美味しい物を食べるとか。行きたい場所に行くとか。今、こうして美来とデートしている事も、俺は幸せだから贅沢だと思うよ。」
自分の頼んだブレンドコーヒーに三個、角砂糖を入れる。そのままミルクを注げば、カップの表面に渦巻き模様を作る。青い花柄で高さのある美しいカップは、この店での俺のお気に入りのカップだ。それを見た美来は砂糖を入れ過ぎじゃない? なんて見当違いな声をかけてきたが、このぐらい糖分を摂らないと脳の処理能力は追いつかない。
「と言うわけで、今日のデートは最高の贅沢を探したいと思います。」
「どうやって?」
「それは…今から考えます。」
「…つまり、何も目星はついていないということだな?」
そうそう。あっけらかんと笑いながら、美来は頷いた。

「まずは贅沢と思う物を思いつくだけ、ここに書き出してみてよ。」
ルーズリーフとボールペンを渡される。美来は本の虫だ。俺と同じ大学の文学部で、純文学や日本語の研究をしている。つまり先程、俺のことを歴史ヲタクと茶化していたが、彼女もまた日本語ヲタクなのである。ただ俺との違いは、好きな学問を仕事にしたくないという事。彼女はその次に好きなファッション誌の編集部に就職を決めた。ここなら言葉を操りつつ、それにのめり込む事なく仕事に取り組める。などと若干不純な動機を内定後、俺に教えてくれた。そんな訳で常に紙とペンを持ち歩き、自分の心の中で美しいと思う言葉を見つけると、大きな目をぱちくりさせて集めている。
「急に言われると…難しいな。」
『最高の贅沢』とだけルーズリーフに書いて、ボールペンを投げ出した。
「はいはい! 白いバラの咲いたイングリッシュガーデンで、最高のミルクティーを飲む! ティースタンドにスコーンがあって、お洒落なケーキやサンドウィッチが沢山乗せられているの。それを本場、イギリスでしてみたい。」
なるほど、確かに贅沢である。金もかかるし、簡単に実現できる物ではない。まず、イギリスに行く事が大変なことだ。
「それなら俺は、ウィーンに行って本場のオーケストラを聴きたいな。もちろん日本でも叶えられるけれど、本場で聴くという事が贅沢だろ?」
さっきから店内でラヴァーズ・コンチェルトが流れている。これはアメリカのポップスシンガーが歌っている曲だが、元はバッハ作曲のメヌエットが原曲だ。こんな風に歴史の根本には必ず原点がある。
イギリスでアフタヌーンティーを体験する。ウィーンでオーケストラを鑑賞する。ルーズリーフが二段埋まった。どちらも幸せな体験であることは間違いない。その空欄の下に、何となく書き込みをする。アメリカでブロードウェイを観る。台湾の九份に行って、あの有名なアニメ映画に出てくる階段を駆け上がる。最後の方は思いつかなくて、ヤケクソで、チロルチョコを全種類を食べると書いた。(俺はチロルチョコのパッケージをスクラップ帳に集めている。一つの趣味として。)なんだか、これでは俺のやりたい事リストだ。それを見た美来は、難しい顔をして見ている。
「何か…思ってるのと違うなぁ。」
「そうか? どれも贅沢な事だし、金も時間もかかるぞ。少なくとも今日、すぐに実行出来る事じゃない。」
「それはそうだけど。それって逆に言えば、お金と時間があれば実現できる事じゃない? もっとこう…誰でも出来る事じゃない、特別な事の様な気がする。」
これは相当、難易度の高い疑問の様だ。そんな誰でも出来る事じゃない、だなんて。そんなこと、ただの大学生の俺達が考えて思いつくのだろうか。
「そんなに難しい疑問なのか? これは。だって、今を考えてみろよ。俺らは生活も不自由無く、就職先も決まっている。恋人だっている。満たされているじゃないか。これで充分贅沢だろう。」
「そこなの。」
「え?」
「私達は今ある程度、満たされている状態なの。それでも『最高の贅沢』なんていう、何かを追い求めている。この時間すらも最早贅沢なのかもしれないし、違うのかもしれない。」
そんな哲学的な回答が返ってきた所で、余計に俺は頭を抱えるだけだった。

「ところでさ。突然こんな事言い出してどうしたんだよ。何で、そんな事を思いついたんだ?」
困った時は基本に帰る。俺はいつもそうすることにしている。基本というものは、文字通り物事の基礎になっているものだ。何故、美来はこの疑問を考え出したのか。それが分かれば、滑らかに思考も働くのではないかと思った。
「夏目漱石がね。苺ジャムが大好きだったんだって。」
「それは有名な話じゃないか? ただでさえ、甘いジャムに砂糖を振りかけてそのまま舐めていた、なんて話も残される位の甘党だったって話だろう。」
文学史は専門外だが、それくらいの知識は俺も持ち合わせている。特に近代日本史を専門にしている俺は、明治時代以降の作家であれば美来の影響もあって少しは学んだ。
「そう。それで晩年は糖尿病に悩まされていた、って言うのも有名だよね。」
「それと、最高の贅沢は何の関係があるんだ?」
夏目漱石が糖尿病だったのと、贅沢は何の関係があるのだろう。イコールで結び付かないがルーズリーフに書き込む。
「分かってないなぁ。こういう時こそ、歴史ヲタクの本領発揮でしょう。何で、漱石は苺ジャムを舐め続けたと思う? それこそ糖尿病になるくらいの糖度のジャムを。まさに、命を削りながらジャムを舐め続けた。」
眉を潜めながら、美来が俺の目を見つめる。
『命を削りながら、ジャムを舐める。』
この一文をルーズリーフに書き込んだ時、俺は閃いた。
「…まさか。美来、そういう事か。お前の言いたいことは。」
にっこりと目の前の美来は微笑んだ。そして、冷めたミルクティーを一口飲む。そのまま、ほうっとため息をついた。
「だって狂気の沙汰じゃない? 幾ら甘党とはいえ、苺ジャムに砂糖を振りかけて一瓶丸ごと、舐め尽くすなんてさ。ましてや明治時代だよ。砂糖やジャムは高級品。自分が病に苦しんでも、好きな物を食べたい。これこそ、最高の贅沢だよ。」
何かを犠牲にしても、好きなものを自分のものにしたい。それほど焦がれるものが最高の贅沢なのだ。美来はこれを今、欲しがっている。では美来が焦がれる程、欲しいものとは一体何なのだろう。
「その後、日本は急激に西洋の文化を取り入れ始めた。ちょうど明治時代から大正時代にかけて、生活は大きく変わっていった。それは現代まで通じる物も多い。大正モダンなんて、未だに流行の先端をいく事もあるよね。けれど服装や生活様式、流行も全て西洋風に変わる中で、唯一変わらなかった物がある。拓望はそれ、何だと思う?」
「…言葉、か。」
「大正解。」
ミルクティーを飲み干した美来は、カップを脇へ退かした。それを見たウェイターがカップを下げ、お冷のグラスに水を注ぎ足した。
「どれだけ英語や中国語の文化が入って来ても、日本語は独自の発展を遂げた。ひらがな、カタカナ、漢字。これだけの様々な文字を用いて文章を作る国は、世界的に見ても珍しいの。」
俺も冷めてしまったコーヒーを飲み干す。そしてウェイターにもう一杯、コーヒーとミルクティーを注文する。

日本語は美しい言葉だと思う。俺の好きな、奥ゆかしく控えめな日本人の精神をそのまま体現している。言葉なのに、相手に伝わらない事が粋だとされる時代もあった。そして戦時中の、あの標語。あれは一見すると、欲を出す事が罪の様に捉えられる。しかしそれは違う。むしろ貪欲なのだ。
『戦争に勝つ事』
これを当時の日本人は貪欲に、そして贅沢にそれを求めたのだ。それが自分達の、最高の幸せだと信じて。
「ねぇ、拓望。私、最高の贅沢をしたいの。…焦がれる程、欲しい言葉があるよ。」
「…どんな言葉?」
「やだな。それを直球に聞くこと程、野暮な事ある?」
そういえば、俺は最後に美来とこうして向かい合って話したのはいつだろう。美来と最後に、尖端邸でお茶をしたのはいつだろう。美来の目の前に、あのティーカップが置かれる。前回それを見たのは…確か、大雪が降った日。そしてテーブルには、赤いリボンが巻かれたピンクの箱。中には美来のお手製の、トリュフチョコレートが入っていた。その次にこの店に来た時。彼女はソリッドで美しいフルートグラスに入った、アイスミルクティーを飲んでいた。傍らには美来のお気に入りのヴィヴィアンウェストウッドの、淡い水色の日傘。
「…ごめん。俺…なんて言ったらいいか…。」
「いいの。私もいつ、気が付くかなぁ。って底意地悪く考えていたから。」
そう言って美来はティーカップを掌で包み込む。彼女の長い睫毛が頬に影を作る。影が細かく揺れて、そこから彼女の心の痛みを感じ取る。
「俺、就活とか卒論とか余裕無くて、ちゃんと美来に向き合えて無かった。それでも…。卒論に煮詰まって、美来に会いたくなったんだ。それで今日は呼び出した。でもそれは、俺の勝手なわがままだよな…。」
俺は恐らく、この半年間殆ど美来とデートしていない。最後の記憶は、梅雨のジメジメする暑い日で止まっていた。それだけ卒論や卒業後の事で頭が一杯だった。いや、俺は大好きな歴史の事ばかり考えていた。同じ位、大好きな彼女の事を忘れる程。
「私ね、拓望の横顔が好きなの。」
突然美来は、そんな事を言い出した。その一言から彼女の言いたい事が分かった俺は何も言えず黙っていると、美来はそのまま言葉を続けた。

「私たちの出会い、覚えている? 大学の講義で拓望の横に座った私は、ペンの替え芯を忘れたの。そしたら、拓望がボールペンを貸してくれた。」
まだ俺らが一年生の時、彼女は講義中隣の席に座っていた。がちゃがちゃとペンケースと弄りまくり、カチカチと何度もペンのノックを繰り返す。その耳障りな音が気になって、無言で余っていたボールペンを貸したのだった。彼女は驚いた顔をしながら、済まなそうにボールペンを受け取った。
その頃、俺は大学の図書館で自分の好きな歴史の文献を読み漁る事をライフワークにしていた。授業がなければ、ほぼ図書館に居た。昼食ですら学食の騒ついた雰囲気に馴染めず、一人で中庭で適当に済ませていた。特にサークル等にも所属せず、一人でいる事が好きだった。自分に必要な物は手の中にある物だけで良い。そんな風に入学したての浮ついた大学の中で、俯瞰して物事を見ていた気がする。そして同じ文学部とは言え、履修している授業が美来とはあまり被っておらず、彼女の事は正直言えば忘れていた。
ある時中庭で一人昼食を採っていると、彼女は目の前に突如として現れた。おもむろにベンチの隣に座ると、あの時のボールペンを取り出して俺に返してきたのだった。
「やっと会えた。あの時のボールペンを返したくて。」
そう言ってあの時貸した、ボールペンの新品を渡してきた。
「いいよ、そんな安物。あげる。」
実際大したものでは無かった。安物の大した事のないボールペン。それでも美来は頑として、俺がそれを受け取る事を諦めなかった。
「君、文学部? 専攻は何なの?」
「日本史かな。」
「私も文学部なんだ。専攻は日本文学。」
「へぇ。」
履修が被ってるのだから、学部は知ってる。そう思いながら食べ終わった菓子パンの袋に、紙パックのジュースのゴミを入れながら答える。立ち上がって、次の時間は空き時間だから図書館へ行こうと歩き出す。
「待ってよ。ねぇ、君。名前はなんて言うの?」
俺のシャツを掴んで呼び止める。なんだこいつ。突然パーソナルスペースを縮められる事が苦手な俺は、顔をしかめた。
「私、陸名 美来(むつな みく)って言うの。陸続きに、美しい未来へ繋がるって意味の名前なの。素敵でしょう?」
「じゃあ、その陸は俺には繋がっていないな。俺は海野 拓望(うみの たくみ)。陸からすれば、海は行き止まりだ。」
それだけ言って足早に図書館に向かう。むつな、みく。ぼそりと彼女の名前を呟いてみる。むつな、と言うより無垢な、という方が似合うなと思った。

「海野君、いつも図書館にいるんだね。気がつかなかった。」
三日後、図書館のデスクで明治時代の新聞のレプリカを読んでいた俺の前に、美来はまた現れた。隣の椅子に腰掛けるとにっこりと笑う。
「むくな…さんだっけ? 何の用?」
「違うよ、陸名だよ。ねぇ、美来って呼んでよ。私も拓望って呼ぶ。」
「俺、そうやって突然人との距離を縮められるの苦手なんだ。用がないなら、ほっといてくれないかな。」
そう言って読んでいた新聞に目を落とす。ぱらりとページをめくった瞬間、彼女があ!と大きな声を挙げた。
「これ、三四郎の初回が載せられている朝日新聞じゃん! こんなの、うちの大学にあったんだ。貸して! 読ませて!」
「ちょっと。声が大きいよ。」
しーっと指を口に当てながら、彼女に注意した。彼女の高い声は静かな図書館でよく響く。はっとして、慌てて彼女は口を手で押さえる。ずいぶん素直で子供みたいな動きにちょっと笑ってしまった。
「…何か、おかしい?」
「いや。何ていうか子供みたいだな、美来ってさ。」
美来、と呼んでやれば心底嬉しそうに笑う。きゃっきゃと犬が尻尾を振って喜ぶ様に、拓望君、拓望君、と何度も意味無く呼んできた。
「夏目漱石が好きなのか?」
三四郎をじっくりと黙読する彼女に、疑問をぶつけてみる。
「そうなの! というか、夏目漱石と森鴎外の関係性は日本文学の断片を伺えてアツいし。芥川龍之介は短編を書かせたら天才なのに、長編の才能は無いというか…。そもそも私生活はダメダメだし。谷崎潤一郎は、あんなに女の人を侍らせているからこそなのか、男の人なのに女の人より『女』を知ってる。三島由紀夫なんて、死因は切腹だよ? そこまでして、自分の思想を守りたかったのか…。と妄想が膨らむよね。こんなにも小説家って人間は面白いの。中でも日本の小説は独特の言語を多才に操り、読者をいろいろな世界に連れて行ってくれる。読むだけで様々な時代や文化、歴史の中を旅しているようでしょう! そんな素敵な事、他にある?」
物凄い熱量で美来は小説について語る。先程までの子供の様な無邪気さとは真逆で、大人びた知的好奇心をちらつかせる。一体、彼女の中にはどれ程の好奇心と無邪気さ、そして日本語が詰まっているのだろう。彼女は何を見て、何を考えている? 目の前に居る『陸名美来』という女の子は、どんな人間だ? 新たな歴史の断片を魅せられ、その根本を探るときに様な高揚感に似た感覚を感じる。いや、それよりも強烈な…。何かシグナルを俺は感じ取った。もっと、知りたい。もっと、見たい。そんな感情が俺の口から、零れ出た。
「…知りたい。」
「…え?」
「俺、知りたいんだ。美来のこと。君の中には、どれ程の日本語が詰め込まれているんだ? 一体どれくらいの日本純文学の知識があるんだ? 君はどんな人間で、どんな歴史を紡いできたんだ? この思いは何だ? 新しい歴史に触れる様な…。」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 拓望君。どうしたの、急に。さっき迄、他人に距離を縮められるのは苦手、なんて言っていたのに。…まさか、私に恋しちゃった?」
大きな瞳をぱちくりさせながら、美来は戯ける。はたと、俺も冷静になる。先程の衝動は何なのだろう。今まで感じた事のない衝撃、電流の様に瞬間的に『彼女を知りたい』と思う事。俺はこの『知りたい』を生きてきた中で感じた事は、無かった。
「分からない。俺は今、美来の事を知りたいと思った。君のその小説や日本語に対する熱意。それに触れた時、俺はもっと君の中にある世界を見たい。それを知りたいと思ったんだ。」
図書館の窓から風が入ってくる。夏の始まり、草の青い匂いと太陽の乾いた温かな温度が俺のシャツの中に入って抜けていった。
「これが恋なのかは…分からない。俺は今まで、誰かに恋をした事はないから。」
そこまで言って、急に恥ずかしくなる。自分の熱意を一方的にぶつけて、それを受けた美来は困惑している。もっと理論的に説明しないと。そう焦る気持ちばかりが湧いてくる。次の言葉がどうしても、出てこない。
「私ね、拓望君の横顔が好きなの。」
美来は突然、はにかんでそう囁いた。窓をぼんやりと眺めて心を落ち着かせていた俺は驚いて、美来の顔を見る。
「ずっと横顔が綺麗な人だなって思っていたの。講義中。頬杖をついているのに、右手はスラスラと滑らかに板書をする。教授の話を聞いていないのかと思えば、ぽろっと言われた一言をさっとメモを取る。それを眺めて長考したと思えば、思いついた様に何かをノートに書き込む。講義を聞きながら、自分の疑問や好奇心に素直で貪欲なの。知ってる? その時の拓望君、とても楽しそうなの。」
また大きな目をにっこりと綻ばせて、彼女は笑った。

「美来。俺は大学を卒業しても、そこにしがみ付いている程の歴史ヲタクだ。お前の事や他のことを全て放り出すくらい、馬鹿みたいに自分の知的好奇心が止まらない。それなのに、俺はどうしても分からない。国民精神総動員の真意が。何故、言葉と裏腹な欲望をあんな標語にしたのか。俺は今まで奥ゆかしく、控えめな精神が日本人の美しさだと思ってきた。だから日本史が好きなんだ。でも何故か、この政策だけは理解できない。だっておかしいと思わないか? 戦争は人が死ぬんだぞ。それでも控えめに勝ちを追い求めるなんて。そんな狂った思想を…俺は受け入れられない。」
美来との時間や他のことを全て犠牲にして、俺はこの政策について半年間も悩み続けてきた。これこそが、卒論のテーマだからだ。滅私奉公、自己犠牲の塊であるこの運動は、プロトタイプの日本人としてあるべき姿。それは、現代の日本にも深く根付いているのに。ここだけエアポケットの様に、俺は嫌悪し続けている。
「それこそが美学だからだよ。」
美来はミルクティーをティースプーンで掻き混ぜる。また目を伏せ、長い睫毛が艶やかに伸びる。その瞳をぱっちりと開け、俺を真っ直ぐ見つめた。
「何かを犠牲にしても、欲しいものを手に入れる。それが日本人の美しいと思うものの条件なの。漱石が自分の健康と引き換えに、甘いジャムを舐め続けた様に。明治時代の日本語訳の文章もそうだと思う。伝わらないけれど、思いを伝えたい。そんな風にある意味、誤訳とも取れる文章が沢山存在する。多くの犠牲者と引き換えに、戦争の勝利を願うのも。そして敗戦という事実を受け入れる代わりに、日本は大発展を遂げて先進国の仲間入りしたとも考えられる。何かと等価交換をして生きる事が、私達日本人は特に、美しいと感じる人種なんだよ。」
かちゃんとティースプーンを置く。それと同時にミルクティーの表面の渦巻きもおさまる。
「私はいつからか、拓望に極上の言葉を望んだ。それと引き換えにこの半年間という時間を犠牲にした。でも、それは犠牲にしたつもりになっただけだった。だって…。私の拓望の一番好きなところは、横顔。どうしようも無く『歴史』という学問に魅せられている表情なの。」
その言葉は俺の脳内パズルのピースが嵌まるのには、充分だった。俺がこのイカれた精神を嫌悪していた理由。自己犠牲は美しいと思う反面、それには何らかのリスクや被害を伴う。俺は理想の為に犠牲が出ている事を恐れ、触れたく無い部分から目を背けたのだ。そんな未熟な人間だから美来に対しても、綺麗な部分だけを強いる様な付き合い方をしていた。それを受け入れる美来を見て、余計に苛立ちを感じていたのだ。美来に恋した時と同じ、無意識に。
「俺は本当に…馬鹿だ。なあ、いつから気づいていたんだよ。」
「うーん。拓望が狂った様に、原爆の仕組みや投下された時の資料を調べ出した時くらいかな。」
それは恐らく、今年も夏本番の暑さが日本に到来した頃だった。ジリジリとコンクリートと肌を焦がす日射。そんな前から、俺は美来を見失っていたのかと絶句した。
「そんな前から…。俺、自分が情けないよ。付き合うきっかけだってそうだ。美来があの時…。」
また俺は、あの時と同じなのか。三年前と何も変わらない自分の愚かさに、猛烈に恥ずかしくなる。俺はこの三年間、美来の隣にいた。それで何を、学んだ? 彼女の何を、見ていた? お冷を一気に飲み干す。今度こそ、伝えなければならない。

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「じゃあ、美来。俺のこの『知りたい』という気持ちは何なんだ? こんなに誰かに対して興味が湧いたのは初めてなんだ。美来の知識量や日本語に対する熱意に、物凄く心を動かされた。」
俺の横顔が好きだと言った美来に、疑問をぶつけてみる。うーん…。と少し悩んだ後、こちらの様子を伺う様に質問を返してくる。
「拓望君って、大学に他に仲の良い人いるの?」
「俺は地方から出てきたから、大学には友達がいない。まぁ、地元にも数える程しかいないが。」
「へえ、地方の出身なんだ。地元は何処なの?」
「長崎だ。」
「生まれも、多くの歴史が生まれた土地なんだね。ちなみにその友達は、どうやって出来たの?」
「まあ…幼馴染かな。幼稚園の頃から、気が付いたら高校までずっと、男四人で一緒だったんだ。」
「じゃあ、自分から他人に興味を持った事がないんだね。」
何が言いたのだろう。俺は美来の心情が理解出来ずに困惑する。
「拓望君。私の事が知りたいなら、まずは仲良くなって自分を知ってもらう事からじゃないかな。それが、人付き合いの基本だよ。」
「そうなのか? じゃあ…。俺は美来にもっと興味を持って貰えるような存在になれば、この思いが何なのか分かるのか?」
大真面目に返答した俺に、美来は吹き出した。
「拓望君って、本当に知的好奇心に貪欲なんだね。」

そう言って事あるごとに、俺らは一緒にいる様になった。講義や図書館、昼食に美来が隣にいる事が多くなった。その内、彼女の友達とも何となく仲良くなった。その中には別の女の子もいたが、俺はどの人間に対してもあれ程の衝撃を抱く事はなかった。そんな風に訪れた、大学生活初めての夏休み。校外で初めて美来に会った。その時に彼女は待ち合わせ場所を、この尖端邸を指定した。
【大学の近くに拓望の好きそうな喫茶店があるの。お茶でもどう?】
【いいね。行く。】
勿論、二つ返事で了承した。そして待ち合わせに現れた美来は、とても美しかった。五十年代から飛び出してきた様な、紺色のラペルネックワンピース。頭に赤いスカーフをカチューシャみたく巻いて、エナメルのメリージェーンを履いていた。その姿でロイヤルミルクティーを飲む。昭和初期で止まった店内とも合わさって、一枚の絵画の様で俺の鼓動は高まった。
木枯らしが吹いて枯葉が舞う頃。俺は漸くその衝撃が、恋なのだと知った。美来の大好きな江國香織の小説『東京タワー』の中で。あの頃は少しでも美来の事が知りたくて、仕方なかった。そんな俺に彼女は、沢山の本を薦めてくれた。ありとあらゆる本、絵本から小説、詩集まで。
『からすのパンやさん』を読めば、パンが食べたくなる。『雨ニモマケズ』を読めば、人間は無欲である事が理想なのかと思いを馳せた。『人間失格』を読めば、俺は自分が人間である事がとても恐ろしく感じた。そうしてあまり現代小説、とりわけ恋愛小説を読まない俺に薦めてくれたのが、この江國香織の『東京タワー』だった。美来が一番好きな恋愛小説だと言って、俺に文庫本を貸してくれた。この中の主人公に、俺は自分を重ねる。一日の思考の全てを恋した相手に捧げる。この姿は正に、俺が美来にしている事だった。
そして俺はその年のちょうど今くらいの時期。ベタにもイルミネーションの中で正式に思いを再度、彼女に伝えた。
「美来。半年かかって、俺はあの日の衝撃を理解した。やっぱり俺は美来に恋をしている。俺は今まで他人に興味は無くて、自分の好きな事が出来れば良かったんだ。でも『知りたい』という気持ちは、こんな風に誰かの存在を焦がれるほどの原動力になる。それをお前は俺に教えてくれた。だからもっと…。この気持ちの先を美来と一緒に知っていきたい。」
美来は俯いたまま、目を閉じて何かを考えている。沈黙に耐えきれず俺は口を開いた。
「…あの。何か言ってくれよ。」
「待って。」
また黙り込む。今度は三秒ほど、間が空く。
「ごめん。私…。」
振られる。そう確信した俺は、その先の言葉を言わせまいと矢継ぎ早に続ける。
「やっぱり今の無し! ごめん、忘れてくれ。その…。」
「違う! そうじゃないの。そうじゃなくて。」
俺の言葉を美来は慌てて遮った。その瞬間、俺らは目が合う。そして彼女は、俺のジャケットの袖をおずおずと掴む。
「拓望の言葉、とても素敵だった。でも私は今…。それに見合うだけの日本語を持ち合わせていないの。」
美来の中で、嬉しさと悔しさがせめぎ合う。複雑な顔をしているのが見えた。
「私、勉強不足かも。」
瞳がぱちりと、開いた。その瞳の眩しさに俺は目を細めながら、美来にだけ聞こえる様にそっと囁く。
「それでも俺は、美来が好きだ。」

今もその恋心は変わる事なく、俺の心を焦がす。それなのに何故、俺はこんなにも大事な事を忘れてしまっていたのだろうか。
「俺は美来の事が好きだ。初めてお前の、日本文学に対する熱意を知ったあの日から。ずっとそれは変わらない。美来の素直で、好奇心旺盛な所がとても愛おしい。」
「うーん。70点って所かな。半年待たされた挙句、卒論の重大な発見に貢献した事を考えると、あと30点足りないね。せめて三年前の…。付き合い始めた時の言葉よりも更に、贅沢な言葉でないとね。」
悪戯っぽく美来は笑う。70点。俺たちはこの三年間、何が良くてずっと一緒に居たのだろう。そしてこの先も、彼女とずっと一緒にいるにはあと30点足りない。俺はコーヒーに更に砂糖とミルクを足す。掻き混ぜながら、ふと美来のフルネームを思い出す。
「陸の先には、海が広がっているとしたら?」
「ん?」
「昔、美来が言ってただろう。お前の名前は陸続きに、美しい未来に繋がっているという意味だと。その陸の先は大きな海が繋がっているんだ。俺はあの時、その陸での海は行き止まりだと言った。けれど俺の名前は海野 拓望だ。海野は大海を意味する。そして俺の下の名前、拓望は新しい事を切り開く事を望むという事だと思っている。陸から大海に飛び出して一緒に、俺と見たいものをこれからも二人で探しに行かないか?」
ごくりと生唾を飲み込む。美来は目を閉じて少し考えてから、ゆっくりと開いた。
「キラーハピネス…だね。」
「何だそれ。どう言う意味だ?」
「最高の贅沢。これを英訳したらキラーハピネスにならない? 今、思いついたんだけれど。」
何だか思っていた回答より、斜め上の答えが返ってくる。俺は力が抜けて笑えてきた。けれどそれは、残りの30点を埋められた安心感だった。彼女なりの照れ隠しだと、俺は知っている。彼女が目をぱちくりと開く時。それは彼女の心を動かした合図なのだから。
「なるほどな。面白いよ、その発想。」
「そうでしょう!」
今日会った時、一番初めに美来がした希望に溢れた笑顔が戻ってくる。その時俺の最高の贅沢は、この笑顔を彼女の隣で見れる事だと思った。つまり初めから、全ての答えは出ていたという事だ。
「じゃあ、これで決まりだな。」
そう言って俺はルーズリーフの余白に、『キラーハピネス』と書き込む。イコールで『美来の笑顔』と書き込んで、彼女にボールペンと一緒に返した。それを見た美来は愛おしそうに、文字をなぞる。
「私の最高の贅沢は、これからもずっと拓望の隣で綺麗な横顔を見るの。そして時折、拓望が最高の愛の言葉をくれる。その瞬間をずっと、旅をするかの様に探し続ける。歴史の陸を歩いたり、言葉の海に潜りながら。だって、私は…。言葉と拓望が好きだから。」
そう言った美来の笑顔に、つられて俺も笑う。コーヒーを飲み干して、伝票を持って立ち上がる。
「じゃあ、手始めにさ。この先の角の本屋に付き合ってくれるか? 卒論の資料になる本を取り置きしているんだ。」
「へえ。奇遇。私も、読みたい新刊の小説が入荷した連絡を昨日貰ったの。」
そう言って手を繋いで、尖端邸を出る。

キラーハピネス。それは形や物では無い。そして今後も、ずっとその瞬間を人は探し続けるのだろう。歴史や言葉、人間、感情という中を旅をする様に。自分にとって最高の贅沢を欲しがる事は罪の様であるが、これを手に入れるという事が生きるということ。もう、恐れる事は何も無い。そう思える事こそ、最高の贅沢なのだ。

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今回の作品はペーパーウェル05、出展作品です。 
テーマは「旅」ということで、最高の贅沢をしたいカップルのティータイムの話。

彼らは二人とも学問に励む事を生きがいとしています。同じような熱量を持つパートナーの存在を掛け替えのない者であると、三年間の交際中に感じていたのです。
けれど好きなことに正直に生きる余り、拓望は途中で美来の存在を見失ってしまいます。  そして邁進していた学問の中でも、徐々に足場がなくなっていく事に気付きます。
まさに美来は、その時を待っていたのかもしれません。自分が必要とされる瞬間を。
けれど、彼女自身もまた学問を生き甲斐とする者。彼から「歴史」を取ったら、生きがいが無くなる事も分かっていました。

彼ら二人は、お互いにとって替えが利かない。それでいて、自分の生きがいを無くすこともできない。そんな中で見つけ出した答えが作中の通りです。
これは、拓望だから、美来だから、成立する贅沢。キラーハピネスなのです。

そして今回はペーパーウェルということで、紙の作品を残したいと思いました。
外伝として、美来の日記帳「Diary」を合わせて期間限定公開をします。
彼女が拓望と付き合うまでの日記です。拓望の事が何故好きなのか。「陸名 美来」はどんな女の子なのか。そんな事を感じていただける作品です。
合わせて楽しんでいただけたら、嬉しいです。
セブンイレブン→A34CYSGM(11月27日 23時59分まで)
ファミリーマート/ローソン→75P55C4GU6(11月28日 18時頃まで)

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カラー印刷推奨ではありますが、この様にモノクロ印刷でも問題の無い内容になっております。

今回、この様なイベントに初参加させて頂きました。
2ヶ月ほど前から作成を初めて、真剣に作品に取り組んで参りました。
稚拙では有りますが、皆さまの感想を聞かせていただけたら嬉しいです。



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