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二冊の句集


お盆前に同じ俳句結社のお二人が句集を上梓された。
一人は私とほぼ年齢が近いKさん。
Kさんは私が東京で暮らしていた数年間、毎月、句会でご一緒した。
口数は少ないが、いつも穏やかな雰囲気を醸し出されており、俳句にもその自然体の人柄がにじみでている。
もう一人は波多野爽波氏から俳句を学んでこられた大先輩Yさん。
関西での句会でご一緒させていただいているが、俳句へのひたむきさにはいつも頭が下がるものがある。
それぞれふたりの持ち味が十分に溢れており、素敵な句集であった。

先ずはKさんの句集から
叱られぬやうに覗きてクロッカス
読んだ瞬間に私自身の「眉剃ったことを叱られ春隣」と重なった。
クロッカスの季語からをさない女の子のつぶらな瞳が浮かんでくる。

コンクリート打ちっぱなしの花の雨
コンクリートという硬質さと花びらという柔らかい素材感の対比が生まれる中、雨に打たれている花びらが浮かびあがる。

新しき駅新しき桜かな
この句は東京での句会で披露された記憶がある、新しきというフレーズのリフレインと駅と桜。新しい今年の桜が咲く頃に竣工された新しい駅。新入生や新入社員が乗り降りするフレッシュな感じが伝わってくる。

胸元のまぶしき人の五月かな
胸元のまぶしい人の五月という表現がとても新鮮で、初夏の爽やかさが伝わってくる。同時に胸元がまぶしいという感覚は、この時期に、共感するものがある。

みんな手をふつてくれたる梅若葉
この句は静岡の一泊の吟行での句で、蒸気機関車に対して地元の方が手を振ってくださる気持ちいい感じが梅若葉と響きあっている。

その服を覚えてゐるよ冬林檎
これは奥様と出合った頃の思い出の服のことか?。
その服を着た頃のお互いがまだぎこちなくまた新鮮な感じでつきあっていた頃の青春性が冬林檎の甘酸っぱさと重なる。

この年の暮れゆくマニキュアの小瓶
奥さんか娘さんのマニキュアの小瓶。
観察力の深いKさんはその馴染みあるマニキュアの記憶を重ねてそこに年の暮れを感じたのだ。コロナ禍で在宅で過ごす時間が増えたことでマニキュアを楽しんだご家族の姿が浮かんできた。


次は大先輩のYさんの句集から

まなかひに鰆の頃の海の色
鰆が瀬戸内海にやってくるのは春。目を閉じるとその頃の春のおだやかな瀬戸内の風景に新しい人の出会いと別れの記憶が重なる。まだ肌寒い時期に鰆の頃が訪れ、新たな出会いがあることを期待する句でもある。

鮨飯を光らす秋の団扇かな
炊き上がったシャリを団扇で冷ましている情景が浮かんでくる。
明石の朝市の新鮮な魚を使った手巻き鮨か。

雛段のうしろ水平線の青
写真の構図としてピントがあった雛の背後に瀬戸内の海がぼんやりと広がるイメージが浮かんでくる。遠近の対比が見事である。

先生は年下のかた花ユッカ
結社の代表は私とほぼ同年齢。年下のかたとひらがなで表現され、季語に花ユッカが置かれたことで、何だか楽しい、ユーモラスな雰囲気を醸し出している。

踏青やふりむくたびに淡路島
踏青にいつもの散歩道又は吟行のコースを歩まれている光景。ふりむくたびに慣れ親しんだ淡路の影を認めることで著者は安心して先に進めるのだ。

傷の手にものふれやすき時雨かな
指先の傷は、ちょっとした接触でも痛みが走る。時雨で痛みが走ったわけではないだろうが、作者の心象風景を象徴したようなその痛みが走る感覚と時雨が響き合っている。

蛇口みな上を向きたる暑さかな
公園の蛇口が、小さい子が蛇口から飲んだままになっている情景か。
みな上を向いているということで暑さの象徴として蛇口が見事に機能している。


Yさんの句集の代表の以下の序は、Yさんへの祝福のメッセージであるとともに俳句や詩に関わるものへの普遍的なメッセージと感じた。

小さなことでも、おやと思った瞬間に切り取っておく。そのかすかな心の動きというものは、いざ言葉に置き換えようとすると、少しずつずれて、時には使い慣れた理屈や一般論にまみれてしまう。それを避けるためにはどんどん俳句に置き換えてゆく。絵で言えばクロッキーだ。その時、一番大切な線、核となるもののみを残しておけばよい。問題は、その核となるものを確と捉えられるかどうかだ。

Yさんの句集の代表の序の一部から引用

代表の一番大切な線、核となるものを残しておくという感覚は、多作して削りとられ残っていくものであろう。まだまだ削り取っていくほど多作を重ねていけない自分があるが、日々の写真と俳句を重ね、週2回のブログを更新することを通して自分の内側に自分軸、安定したものが育まれてきているという実感はある。




秋草や静かな場所に静かなひと



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