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最後の乗客を通して


noteでフォローさせていただいているららさん、こんぶさんのご紹介で
「最後の乗客」という映画を観た。
最寄りの映画館での上映期間は2週間と少なく、句会の帰りに観ることができた。

わずか55分の映画で登場人物もナレーションも少ない。
過去の主人公の思い出の映像や海岸沿いの建物等の風景が流れていく。
まるで俳句の世界のように言葉では説明されず、観客の内側でイメージを膨らませてくれる余白がたっぷりとあり、そこからその人に応じて普遍的なものを受け取っていく感じがした。

特別の日なんていらない 映画「最後の乗客」|らら (note.com)


映画『最後の乗客』公式サイト (gaga.ne.jp)


その翌朝に次男と次男が2年前に退学した学校で出会ったある同級生の女性の話をしてくれた。
彼女も映画の主人公と同様に家族関係でとても傷ついてきたようで、次男に対して随分とひどい言葉や仕打ちをしたようだ。
次男自身も当時はよく状況が把握できない中、彼女に対してはただ誠実に向き合おうと意識はしていたようだ。そのうちに彼女の表情も少しづつ変わってきたようで、その体験は次男においてもとても大切なものとなったと語ってくれた。
そしてその女の子の親子関係や自分自身を傷つけていた状況、そして名前までもとても重なっていたので、少し驚いた。


また、先日読んだ松浦寿輝氏という詩人、作家の「わたしが行ったさびしい町」の中の一節が、私の中ではとても気になる内容として残っている。
過去の思い出と夢もいずれも心象であるということ。
「最後の乗客」を通してもまさに過去の思い出と夢との境界に関しても深く考えさせられた。

夢は無意識の世界への扉と言われ、ユング心理学においても夢分析を通して
その人の心象の状態を分析していく手法も存在している。
私の場合は、西洋占星術、タロットカード、夢分析を通して象徴されるものを日常と重ねて受け取っていくということを大切にしている。
それは、河合隼雄氏も語られていた「コンステレーション」やマドモアゼル愛先生の「意識の学問」とも重なるが、自分自身の人生をかけがえのない物語として受け取っていくということに尽きるかと思う。

わたしの過去はわたしの記憶という心象のうちにしかないという一時に尽きる。そして、心象でしかないという点に関するかぎり、それは眠っている間に見た夢の記憶とそう大した変わりはしないのだ。思い出と夢ー前者はほぼ間違いなく確実に実在したものをめぐる心象であり、後者は完全に非実在のものをめぐる心象であるが、心象でしかないという点では両者は等価である。結局わたしたちは、昨日見た夢を目覚めた後に思い起こすのとまったく同じように、かつて体験した過去を思い起こしているだけではないか。

わたしが行ったさびしい町より引用




時雨傘シネマの席の足元に

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