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「趣味がない」は嘘だった。本当に足りなかったのは「余裕がない」ことだった
育休期間中にエッセイを投稿し続けようと考えた際、できるだけ毎日投稿しようと思っていた。ただ、それをルールにしてしまうと負担が大きくなることは過去の経験から理解していたため、無理のない範囲で続けるつもりだった。結果として9日間連続で投稿できており、そのことに喜びを感じている。
ところで、文章を毎日投稿するためのコツを考えてみると、やはりインプットが重要だと感じる。ただし、闇雲に情報を詰め込めばよいわけではなく、自分の心に響くものを取り入れられるかどうかが鍵になるように思う。
不思議なことに、仕事から離れたことで、本来好きだったにもかかわらず、優先度を下げていたことができている感覚がある。例えば、時間に追われて電車移動を選んでいたのが散歩に変わったり、妻とゆっくり食事を楽しんだりと、明らかに健全な暮らしが実現できている。
もちろん、僕は仕事も好きなので、この生活をずっと続けるのは違うとも思う。しかし、自分が本当に好きなことを再発見できたことは、この休暇を取得した大きな意味のひとつだと感じている。
話を少し戻すが、だからといって、インスタントなインプットを繰り返すのも違うように思う。つまり、アウトプット前提のインプットだ。それは職業ライターのような側面があり、自分のやりたいことを考えると本質的ではない。
そのため、重厚なインプットを多方面で続けるほうが、自分の性格には合っているのかもしれない。例えば、YouTubeやInstagramを見るのではなく、映画やドラマを観たり、ビジネス書だけでなく小説やエッセイを読んだりする。最近は音楽を聴く時間よりもポッドキャストを聴く時間のほうが長くなってしまったが、好きなアーティストを見つけてコンサートに行くなど、もっとエンターテインメントを楽しみたい。
「趣味がない」というのは誤りで、「余裕がない」が正しい表現だったのかもしれない。
好きでもないプロ野球を、「会社の取引先の顧客との談笑に使えるかもしれない」と思って見始めようとしたが、やめることにした。それよりも、本当は好きだったのに優先度を下げてしまっていたものを拾い上げ、存分に楽しみたい。ここにも生きる喜びを取り戻したいと思う。