その24 『通知表』必要ですか?(2864文字)
1 はじめに
小学校には、昔から通知表というものがあります。
そのなかでも、5段階や3段階の数字で、その教科の学びを評価するみたいなものが、評定欄だと思っています。
最近では、映画で、通知表を廃止した公立小学校が取り上げられる等、学校長裁量で、いかようにもなることが少しずつ知られるようになってきました。
さて、通知表というもの。
そもそも『在る(存在する)』ことが必然なのでしょうか。
今回は、通知表、評定欄に言及できればと思っています。
この通知表、評定、すべての子どもにとって、どんな良さがあるのでしょうか。
はたまた、有益なものなのでしょうか。
2 通知表・評定の良さ
(1)わかりやすい
ひと学期等一定期間の学びが、3段階や5段階の数字で表されることから、一目でわかりやすい。
(2)達成感
ペーパーテストに向けて勉強した結果が伴った時の喜び、達成感を得やすい。
点数という結果が伴う子どもにとっては、非常に快適な制度であると思います。
(3)やる気
自然発生的に競争心が芽生えることにより、一定のやる気が醸成される。
(4)全体像の把握
知識の定着という観点から、一定の基準で測り、見て取ることができるので、集団としての全体像を、また、全体像のなかの個としての位置付けを把握しやすい。
(5)指導要録作成の基礎資料
各学期毎に作成する通知表の内容を、年度末に作成する指導要録の基礎資料とすることができる。
3 通知表・評定の弊害
(1)『適切』に評価を得られない
点数に結びつかないことを学び続けた子どもにとっては、最悪な状況を生み出すと感じています。
授業中に、子ども自らが問題意識を醸成して、自ら進んで学びに向かい、更に、自宅に帰ってからも夢中になって探究したにも関わらず、ペーパーテストに出題されなかったり、ペーパーテストで問われる定型の解を答えられなかったりという場合には、適切な評価になるとは言い難いのではないでしょうか。
また、学習指導要領に基づく当該学年、当該単元の学びには至らなかったものの、その単元の授業から、過去の自分を乗り越えた子どもの姿ほど、素敵なものはありません。
しかし…数字で評価すると『1』や『2』になってしまいます…。
子どもの姿、学びに触れているその時を、子ども本人と分かち合うことこそ、先生たるものの評価の在り方だと思います。
更に学期末の個人懇談会では、その子のノートを介して、保護者と先生で、感動的な時間を味わいたいものです。
そうあるべきだと強く思います。
これこそ、正しい評価だと思うのですが、いかがでしょうか。
(2)一定の枠にはめ込まれる
過去の自分と比べて大幅にレベルアップした子どもも、評定の範囲内の一定の枠にはめこまれてしまいます。
(3)数値重視
個人懇談会で、保護者、児童本人、先生の意識が『評定』欄に向く傾向があります。
先に書きました『2 通知表・評定の良さ(1) わかりやすい』のように、数字での表現は「わかりやすい」側面があります。
このわかりやすさが、保護者や子どもを一喜一憂状態に陥れてしまいます。
『5』であれば、保護者も子どもも、喜び、微笑む等プラスの感情を生み出します。
『1』であれば、保護者は、怒り、悲しみ、呆れ…、また子どもも悲しみ、泣き、自尊心を失い、自己肯定感は、だだ下がり…。
時には『1』と評価した教師のことを「心ない」「うちの子に合わない」「去年の◯◯先生は、良かったのに…」なんて…マイナス感情を育んでしまいます…。
正に、負の連鎖、負のスパイラルではないでしょうか。
本当に大切なのは、
・ どのように、毎日の授業に向き合っていたのか(態度)
・ どのように、思考を巡らせていたのか(思考)
・ どのように、課題を受け止め、自分や教材、他者と対話していたのか(判断)
・ どのように、友達と交流したり、ノートに書いたり等アウトプットしていたのか(表現)
等を先生が見取り、保護者と共有するのが、個人懇談の正しいあり方だと思っています。
評定の数字に一喜一憂したとしても、せめて観点別評価には思いを馳せてほしいと思います。
(4)減点方式
評定の前段には、多くの場合、ペーパーテストが存在します。
100点ではないイコール、失敗経験となってしまいます。
そして、これが積み重なることによって、自己肯定感、自尊心、個性に悪影響を及ぼすのではないかと感じています。
(5)教師の価値観
100点以外は「ここ、こうしたら良かったね。」、「次は、ここ頑張ろうね」とフィードバックする教師が少なくありません。
100点だったとしても「もっと字は丁寧に書こうね。」や「名前ぐらい漢字で書こうね。」「本当は△やけど、おまけで100点にしたよ。」とフィードバックをする教師も少なくないと思います…。
できたこと、できるようになったことよりも、できなかったこと、課題に目を向けることが、よくあります。
ベテランの教師は、それが子どもの為だと思い、若手の教師は、それが教師だと思い…。
目の前にいる子どもや、未来が見えない時代における学びについて考えが及ばないのではと感じます。
忙し過ぎることが原因なのでしょうか。
先生こそ、子ども以上に学び続けなければなりません。
新しい時代、社会を知らなければなりません。
(6)競争意識が生まれる
望まない競争意識が生まれ、競争社会の一翼を担います。
自分自身が望む競争以外は必要性が低いと思います。
大人や教師が与える競争は、必要最小限(そもそも必要なのか?)にすべきではないでしょうか。
4 おわりに
以上から、目の前にいる子ども一人一人を見とることができているのか否かが、ポイントではないか考えることができました。
一昔前までは、教師が目の前にいる40人の子どもに対して、一斉に問いかけ、呼びかけ、教え込むことで、より多くの子ども(決して、すべての子どもではない)が、理解を示して、より秀逸な教師のコピーになることが求められていました。
だからこその通知表、評定による数値評価だったのではないかと思うようになりました。
しかし、今求められるのは、そうではありません。
社会に求められる人間像は、大きく変容しました。(決して、社会を見据えて未来のためだけに今を過ごすことを良しとは考えていないのですが…)
目の前にいるすべての子どもが「幸せだな」と思えるのは、教師の主観による評価ではなく、一人一人の子どもが、それぞれ学んだことを受け止め、認めてもらえることだと思います。
今や、教師が思い描く学び、イコール、社会が求めるものではありません。
少し話が大きくなってしまいましたが、以上が、一人一人の子どもの姿から通知表について考えたことです。
長々と(今回は特に)まとまりのない文章になってしまいましたが、最後までお読みいただき、ありがとうございました。
読んでいただいた皆様にとって、ごく僅かでも何かのヒントになれば幸いです。