「正解」だけを選択してきたあの頃
日々は、「選択」の連続であると言う。
私も確かにそう思う。今までの人生、「選択」の連続で
何度迷い、時間を使い、労力を使い、お金を使い決定してきただろう。
「誰かが決めてくれればいいのに」と何度も思った。
「未来の自分が伝えに来て、”こっちの道が正解だよ”と教えてくれればいいのに」
と、思ったりもした。
正解ってどれだろう・・・
何度も考え、迷い悩んできた今まで。正解の道を歩みたくて、一ミリも失敗したくなくて、誰もが羨む誰もが認める「正解」をただ探していた。
「正解」を求め、歩いてきた道に辿り着いたのは「不満足」だった。
今の自分はどれだけ挫折してどれだけ後悔してきたのか。
数えきれない後悔をしているのは、きっと
「正解」を求めすぎたからだと思う。
子供の頃、親に医者になるのが良いと言われ、医者を目指していた。
血を見ることや、グロい映画、注射でさえも無理な私会社だなんて今考えれば到底おかしな話だけど。(これは今家族でもネタになっている)
そのころは、医者になるのだけが正解で、医者が一番良くて、それが私の正しい道だと信じて疑わなかった。
なんて言うのかな、世間の「正しい」というポールがあって、自分がそれに摺り寄せられればOK、摺り寄せられない人はダメ、そんなイメージを持ってた。
世間の人はみんな同じポールにすり寄せていくべきで、挫折している人はそのポールにすり寄せる努力ができなかった人、怠け者の人。
そんなイメージを持っていた。
自分の気持ちに正直に決断するというよりも、「正解はどっちか」を常に考えて、お給料が高かったり、安定していたり、無難だったり、リスクが少ない物を選んできた。
それが正解だと思っていた。失敗がない、リスクが少ない、それが、一番。
そう思って生きてきたが、今は「普通」になってしまった。
普通に生きてきたから、普通の人生。
それは当たり前の方程式だ。
なのに、不満なのだ。普通が不満。普通を求めたような生き方をしてきたくせに、どこかで何かが起きて「特別」な人間にでもなれると思っていたんだよなー。
「正解」を求めた結果、何の個性もない、何の特別感もない
ただただ普通の大人になった。
「正解」の道を辿ってきたはずが、特別になりたい自分にとっては「不正解」を選んでいたのかも。
世間一般の「正解」じゃなくて、自分の本当の「正解」を身破れれば良かったのにね。
結局、「正解」なんてない。
人によって「正解」は違うんだから。自分だけの、自分にとっての正解を見つけることが人生の一番の権利なのかもしれない。
親や、友達、恋人、世間の言う正解で決めちゃダメだ。自分の出す「正解」に、人生をかけて責任を負うことが必要なんだ。
と、私は思う。
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