「五重台高原」
*キャプション
「水、水」と被?の友よ 今何?
屍は苔むし 朽ちぬとて
功は?末代に
五重台高原の1昼夜、昭和20年8月24日の夕方より8月25日の夕方までの24時間、24時間は私にとっては一生涯の何分の1になるだろうか。
1日では、
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\frac{1}{24}
$$
1年では、
$$
\frac{1}{24×365}
$$
60年では、
$$
\frac{1}{24×365×60}
$$
となって、私の生涯が長くなればなる程その値は極小になってくる。
しかし、その24時間内のあらゆることを、どのように言い表わしたらよいか分らない。
紙一重の差で靖国に祀られたか、或いは、生涯どうにもならない傷夷軍人として職にも就けず空しく世を去っていかねばならなかったか、全くそれは神のみぞ知る24時間だった。
緊張の連続、全神経をビリビリさせた24時間であった。
関分隊長の動きで前にはって出ようとしたら、前方に屍体があった。
足をつかまえて引きよせ、前に行く道を作ろうとしたら、何か言ったようだった。
生存していたのだ。
「水。」「水。」私の水筒は空だった。
彼の水筒に手をやったがこれも空だった。
自由に動ける場所でもなく、どうしょうもない。
どこかで、「衛生兵殿!」と呼ぶ声がしたので私も、「衛生兵殿!」と叫んだ。
私の叫ぶのが聞えたのか、他に行く途中で気がついたのか、中腰になって衛生兵が来てくれた。
薬品の入った赤十字のマーク入りの皮鞄をかけ、非武装の衛生兵が中腰で走りまくっているのがちらつく。(白い円の中に赤十字のマーク)
走りまくっているのは国際間で認めてある非戦闘員の衛生兵、べったりと地に伏せはっているのは、戦うべき戦闘員。
私は、今でも、「戦線で一番勇敢な兵は。」と聞かれたら、即座に、「衛生兵。」と答えたい。
復員してから聞いたことだが、衛生兵というのは、同時に入隊した兵、100名から150名ぐらいについて、1~2名の割合で選抜してあるのだそうである。
それだから、衛生兵の質そのものも、同年兵の中のより抜きということになると思う。
武解のあと、岩手県出身の大久保 長右衛門一等兵(衛生兵だった)が、五重台のことを話してくれたことがある。
それによると、彼は、「この戦争、精神的にもう負けたと思ったね。」と語りだしたが、衛生兵には、兵の遺言を聞く義務があり、又この時の言葉は遺言書と同じ効力があるとも教えてくれた。
負傷兵がいたから、とんでいくと、助からんとこちらが思えば、先方も自分で悟り、何か言ってくれたそうである。
「1人だけ、しきりと、自分の手首の所をさすり、『これをくにへ。』と言っているんだよ。あきれたね。あの弾の下でね。その負傷兵から腕時計をとったのがいるんだね。まだ時計をしていた跡がはっきり見えるのだよ。どこかで落ちたのではないね。俺、分った、分った、と言ってやったけどね。」と言葉を結んだ。
あの日だいぶ手帳に、それぞれの最後の聞きとりを記入したようだが、おそらく彼が無事に帰国していたら、それらの遺族の方へは何らかの連絡はしていると思う。