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【復員証明書】


一葉の紙片なれどニ◯◯◯一 三大隊の?此の証
得る身は果して
幾人(?)に?ぞ


 軍籍にあった者が外地より内地に上陸した時に発行してもらった証明書。
 たった1枚のざら紙1/4程度の薄汚い感じのする紙片だが、私にとっては千金、万金の重みを感じとっている。

 私と行動を共にした人の中で何人の人が無事に生還し、この証明書を手にしただろうかと思うと、ぞうっとするものがある。

 ◎20001部隊3大隊では、直江中尉の9中隊、藤川中尉の10中隊(私の所属した中隊)、渡邊中尉の11中隊の兵で編制されていた。
 直江隊は兵数名を残しただけで、他は、直江中尉をはじめとして全員興安嶺の露と散ってしまった。
 10中隊、11中隊の犠牲者数は、陸軍二等兵という最下位の身では知るよしもないが、相当数いたはずである。

 ◎シベリヤへは、私の所属していた20001部隊の3大隊が主力となって、チチハル編制の13大隊として、1500名出発して行った。
 彼等は、ソ連側よりは、終戦後もソ連軍と戦火を交えたために、反乱軍としての扱いを受けていたらしく、監視兵が付いていなくても逃亡する心配はいらないような、石切りの作業場に回されたそうである。

 シベリヤに行ってからすぐに1000名と500名とに分けられ、500名の方の隊は、更に奥地に移動。
 その時に別れて以来、この隊の兵の消息は全く不明とのこと。
 1000名中の死亡者数は700名以上、3大隊の大隊長だった佐藤少佐は、眼鏡が鼻の上にのらなくなったそうである。
 ここでの死因は大半が栄養失調とのことだった。

 直江隊の貴重な生き残りの浜田市出身の小池隆夫氏(座金の兵長 幹部候補生の兵長のこと)は奉天農業大学出身だが、彼は、この学校でロッシャ語をかじっていたおかげで、シベリヤに着くと作業隊より外され、病棟付きのベリウォーチク(通訳)になって生きながらえ、昭和23年5月に無事復員した。

 復員した小池氏とすぐに連絡がつき、互いに再会を喜び合い、拙宅で1睡もとらずに語り明かした。
 彼より、別れた13大隊の詳細を聞くことができた。
 小池氏は島根県庁に勤務することになり、後年、時々上京する機会もあるようになったが、菊地とか、はが候補生とかの同期の座金の兵長との再会の様子も聞かせてくれた。

 ◎チチハル編制の私が所属した14大隊は、1500名の中死亡者は300名以上、その率は、2割。

 ◎昭和21年3月より、ソ連側の眼をみはるような給与の大逆転向上によって死者は激減したものの、北朝鮮に転送させられてから短期間ながらも犠牲者はあった。
 何といっても最悪は、三合里収容所の『コレラ』の一大流行によるおびただしい、300名を越す数にも至った犠牲者。


 静かに座してこの紙片を手にとれば、今更の如く、生とは何か、死とは何か、を考えさせられる。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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