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【引揚証明書】

 海外より帰国した兵には、大きく分けると、
 1. 内地にいて入隊し、戦後、海外より帰国した者。
 2. 一般人として海外に出ており、入隊し、戦後、海外より帰国した者。
(他に一般人として、海外に出ており、入隊し、本土防衛のため内地に転属になり、そこで終戦をむかえた者もある)
 の2種類あった。

 2の方のケースでは、軍人として引き揚げていても故郷に帰れば一般引揚者とみなされていた。
 つまり、入隊前にどこにいたかということが、町村に帰った時に、引揚者としての扱いを受けられるか受けられないかの要件だった。
 この証明書に限らず、ここで発行された証明書類はすべて再発行しないということを再三再四通達があった。

 この引揚証明書にしても、みるからにお粗末な用紙だ。だがこれは、各人が、佐世保からそれぞれの落ち着き先までかかる日数に応じての外食券(当時は極端な食糧難のため、この券がないと、食堂に入っても米飯の食事を手にすることができなかった)、乾パン、衣料品などの無料支給品目を記入するようになっていた。
 各人が自分の故郷に帰ってから町村の役場に行き、この証明書を提出すると、引揚者として衣料品などの特別配給があった。
 内地にいて入隊し、戦後になり、海外より復員した者にはこの特典がなかった。
 久手の役場では、終戦までの兵事係の文書類が残っていたらしく、引場者を、軍人と一般引揚者とは区別していた。

 この証明書の裏面には、海外より持ち帰った外貨とか日本の旧紙幣(当時日本では新円になっていた)を新円に交換した場合の記入欄のスタンプの枠(一般引揚者の中には相当なお金を持っていた人もあったようだが、交換額には制限があった)と、軍人としての給料の記入欄のあるスタンプの枠がおしてある。

 初めてであり、又最後でもある軍人としての給料は
 昭和20年8月~昭和22年1月……陸軍歩兵二等兵の給料。二等兵より上等兵までは同じとのこと。

 昭和20年8月~昭和20年11月……終戦の年の11月までは、日本にはまだ陸軍省があって、残務整理をしていたそうである。この月までは戦時手当がついていたそうである。

 この2者の合計、186円を久手の山陰合同銀行で受けとった。
 少尉ともなれば月80円の高給だったが(内地の小学校の教員の初任給は55円だった)、一般の兵ともなれば、わずかに9円。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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