20.昭和20年9月中旬 貨物列車は通達とは真逆のチチハル方面へ
9月の中旬ともなれば、朝夕めっきりと寒くなってきた。
毎日の糧秣受領以外にはこれという仕事もないから、ドラム缶で作ったストーブを焚き、煙草を干したり、とうきびや南瓜、馬鈴薯などを焼いたりしていた。
眠る時には、叺を開いて下に敷いたり上にかけたりしたが、腹が冷えていけないので、炊事からマータイ(とうまい袋)をもらってきて、2~3回腹に巻けるだけの大きさに切って使った。
夏の服装で従軍し、冬期を迎えた兵達はそれぞれに耐寒の準備をすませていた。
ここでは朝と夕方、起床・就寝の時刻を知らせる鐘たたきの役が本部の係になった。
鐘といっても、それはトロッコの線路を50cmぐらいに切断したものに穴をあけ、本部の入口前に針金で吊ったものだが、それを金槌で叩くと広い兵営によく響き渡った。
朝はこの鐘で各中隊の1日が始った。
起床して洗顔、兵舎の前で各兵合毎に人員点呼、皇居遙拝、軍人に賜わりたる五ヶ条の勅諭※を奉唱するという厳粛な朝の行事が行なわれていた。
※軍人勅諭
それ、我が国の軍隊は、…から始まっており、前文・本文ともすごい長文だった。学校教練の査閲がある時には、浜田の部隊より来校した査閲官の前でこれを言わされることもあるので、その当時の中学生は誰も必死で覚えた。
その中で、本文のみだしは5項目だった。
1つ、軍人は、忠節を尽すを本分とすべし。
1つ、軍人は、礼儀を正しくすべし。
1つ、軍人は、武勇を尊ぶべし。
1つ、軍人は、信義を重んずべし。
1つ、軍人は、質素をむねとすべし。
の5つだけは、毎朝奉唱し、皇軍としての気構えだけは保持していた。
このような形式の朝の点呼は、シベリヤに行っても続いた。
ソ軍の警戒兵の日常生活も私達の叩く鐘の合図に合わせて始っていたらしく、鐘の時刻が早かったり遅かったりしたら、通訳を介してすぐに本部に文句をつけにきていた。
興安にいた日本軍は、一斉に出立したのではなく、何日かずつ間をとって、中隊単位、または大隊単位で出発したようだった。
興安にいた日本兵が全員「徳伯斯」に移動し終ってから、5つの大隊に分けられ、大隊毎に順次、新京(現在の長春の都)に移動することになった。
ーもちろんのこと、これもまた日本兵をだますだけに終ったことである。ー
ソ軍側の司令部員の巡視や入浴滅菌を済ませてから、1大隊に配属だった私達は、何回ともなく広場に集合しては、出発取り消しにあった。
このように、出発準備を済ませて集合させたり、あるいは、駅まで出発し、到着してからでも、「本日はここまで。出発、あるいは乗車は取り消し。」ということは、ソ軍側の得意中の得意で、このようなことを、私達日本兵の間では、「予行演習だ。」といっては笑っていた。
薪を準備したり、(車中のストーブの燃料として)貨物列車の中に二段装置を作ったりして張り切っていた初の貨車旅行も、興安嶺の山中で、積荷が重過ぎるとかで、汽車が自然停止してしまった。
上りこう配で、全員下車して、生まれて初めての、聞いたこともない体験(貨物列車の後押し)もした。
乗車した日には出発せずに、車の中で夜をあかし、翌日発車したが、夜になったら朝まで停車した。
この調子だから、1週間もかかった汽車輸送だったが、到着地点は新京とはおおよそ縁遠い、180度正反対のチチハル駅の1つ隣のコウコウケイだった。