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47.昭和21年9月 松山ならぬ朝鮮の『坊っちゃん』二人

 また、私の隣に寝ていた(私の両隣もその隣もみんな死んでいった)藤井さんの死の前日、甘味品のぜんざいが支給された。
 私は甘味品に使用のバクダンと呼んでいた工業用の砂糖に負けて下痢するから捨てる、というのを、彼は「捨てるようなら、くれ。」と自分に支給されたのは一人前食べてしまい、その上に私のも欲しがった。
 「バクダンにやられるぞ。」と注意すると、彼は「大丈夫。」と言うので、私の分け前をごっそりと渡した。
 藤井さんはおいしそうに食べていた。
 誰だって甘味品だから食べたい。だが、私はよくこのバクダンにやられて下痢をしていたからこのときと思い、自重したまでのことである。

 あとから人に聞いたところでは、この岐阜県出身で小郡機関区で助役さんをしていて応召になったという藤井さんは、前の日より既に下痢をしていたそうだった。だから案の上、翌朝、私が眼をさましたときに、もう彼は搬送準備を看護婦さんにしてもらっていた。
 そして一言も言わずに担架の上に寝ていたまま、衛生兵から注射をしてもらっていた。

 「うしろじさあん、おせわになりました。」と消えるようなかすれ声で言ったのが藤井さんの最期の別れの挨拶。
 それでも藤井さんは体力があったのか、隔離病棟に搬送された翌日までは生きていた。

 発病したり保菌者になったりして、どんどん二伝を退出していくために、80名もいた病室内に20名もいないときもあった。
 新しく入ってくる患者に対して、古い患者は病院内のことを教えてやった。また古くもなれば、衛生兵や看護婦さんの手伝いもよくさせられた。夜盲症の患者用の黄粉の配分は、看護婦さんが任せてくれた。

 あるとき、この黄粉の請求のために病棟の入口に近い部屋にもうけられていた医務室に入ったら、誰もいなくて、窓ガラスの割れ目にべったりと紙が貼ってあって、その紙に短歌のようなものが書いてあった。

 それには、
 “踏まれても、根強く忍べ、道草の、やがて芽を吹く、春は来ぬ。”
 と書いてあった。中々風流な人。
 おそらく軍医さんか婦長さんあたりではなかろうか。
 優雅な文字、墨書。
 歌の意は「苦労していても、辛抱しているとやがては晴れて、帰国する日があるよ。」ということとは思ったが、シベリヤの味をしらない軍医連中はこんなのんきなことしかしらないのか、それなら私もひとつ、としばらく考え、帯革を外し(革バンドのこと)その金具で窓の柱のところに、
 “それ薬、やれ運動と太らせて、やがで血を吐くシベリヤへ。”と刻んだ。

 短い金具でやっとのことで傷あとだけを残した。
 刻んだ字を読みながら帯革を腰にしめていたら「こらっ。」と私の肩に手をかけた者がいた。
 びっくりした。
 心臓が止まるかと思った。
 モウタ衛生兵だった。(漢字は知らない)

 彼に捕ったら一言半句の弁解も、並べ立てるだけ無駄なあがきになることは間違いない。こちこちのたたきあげの下士官で衛生兵。古い患者から「衛生兵殿」と呼ばないで「班長殿」と言って、下から持ち上げるようにしてさえやれば上機嫌だということを聞かされていた。
 生れつきなのか、それとも患者の給与のピンはねでもして特別給与にありついているのかはしらないが、とにかくすごく腕力が強かった。
 誰も、陰では馬鹿力だとつぶやいていた。
 患者に対しては、終始、いたわりよりも気合いをかけることが多かった。
 特に清掃だの巡視だのというと、率先垂範、上半身から湯気の出るほど働いていても、患者を叱りとばすときにその強さが彼にとってはあだとなり、とかく長所は誰からも見捨てられがちだった。

 ときたま、目にあまるだらしない患者がいると、その患者の首っ玉をつかまえて吊り上げ、舎内をぐるりと一周したりした。
 私も、ソ軍の軍医が巡視にきたとき、中央の通路に対して背を向けて座り煙草を吸っていて、それを知らず欠礼※したことがあった。


※欠礼
もとの日本軍の規定では、舎内に将校が入ってきたとき、中にいる兵の上位者が「敬礼!」と号令をかけ、他の者はその号礼に合わせて各人がその場で敬意を表わすことになっていたようである。
病棟では、ソ軍側の軍医が入ってきたときだけはこのような旧日本軍の礼式で通していた。その号令に合わせて改意を表わさないで、背を向けていたりすることを「欠礼」といっていた。


 私の欠礼はロスケの軍医の先導役の清水軍医大尉の後についてきていた、例のモウタ衛生兵に見られた。
 彼が見逃すはずはない。
 入口のところでロスケの軍医を見送り、すぐ舎内に引き返してきた彼に、腰の帯革と首っ玉をつかまえられ、両手で差し上げられた。
 一回、降ろす真似をしておいて、また差し上げた。
 目がまわるような気がした。
 私を降しておいてから「今日は絶対に許せん事故だ。」と言い、便所掃除をしておくようにといいつけられた。

 この「欠礼」というのは、『我が国の軍隊は、』の時代であったら、患者はまだ治癒していなくても事故退院という不名誉な退院をさせられたり、各病棟を謝罪に回らせられたりしたものだそうである。
 日本の軍隊では精神教育を主んじていて、物量の不足を精神面の充実で補おうという考えもあったようで、礼を重んずるという面の教育にしても、それはそれなりの効果があったことと思う。
 しかし、その我が国の軍隊時代の名残りを持ちだし、捕虜の身に適応させようとは、あまりいいソ軍側の軍医対策でもなさそうだった。

 便所に行ってみたら今日に限って不潔なこと、中隊の使役が油を売ったようだ。それをたった一人ではとてもやれそうにもない。真面目にやったのでは三合里の赤土に埋るのが精々である。
 どうやら巡視のときには便所の入口だけ見ていて、内部は見ていないようだ。中隊の健康兵でさえ手を抜いているものならと、思いきって消毒用の石灰をいたるところにたっぷりとまき散らした。
 私がやりだしたところへ、在満のロートルの長田オサダさんが、やはり彼から便所掃除をいいつかったといってやってきた。

 長田さんは、後日急性肺炎で急逝するぐらいだから、実にあっさりしていた。
 私がいきなり石灰をまくのを見て、
 「何だ、簡単なことじゃないか。俺にもさせてくれ、これなら毎日でもしてやる。」と言った。
 長田さんは手を降ろし、私に向って、
 「俺な、お前と考えが違うぞ、俺、もう一回、彼に怒られるかどうかの危い芸当をやっているんだぞ。この石灰な、確か、今週の配給量だと言っていたのを聞いたような気がするから、思いきって使ってみる。患者を使うなんてとんでもない衛生兵だ。欠礼ぐらいで労働するより、事故退院で中隊に帰った方がいい。」と話してくれた。

 私のまいたその上に、どちらも思いきりよく二人分、三人分の人夫さんがまくだけの石灰を狭い便所にまいたから、木箱とセメント袋の石灰はほとんどなくなった。
 彼も私もタオルで口を覆い、ふりまいた。
 用便にきた患者は、便所から出るとすぐに水筒のお茶で口をうがいした。
 次々にきた患者は誰も相談したように、水筒のお茶でうがいをしていた。

 今考えても無茶な話だったが、満洲国にいるとき、土建業の請負師をしていた土方あがりで、腕に文字の入墨をしていた長田さんは、私よりも数段階上の無茶屋のようだった。
 若い頃は夏目漱石の【坊ちゃん】を連想させるようなこともあったろうと思われる。

 翌朝、早く彼が私を起しにきた。
 「おい、重大ニュースが入った。」と言ってやってきた。
 モウタ衛生兵が石灰の件で、婦長さんや軍医さんからしぼられていたということだった。
 長田さんは、その便所の中でも『看護婦専用』という貼り紙のしてあったところでは、特に石灰をこってりと厚くまいておいたといっていた。
 「お前見たか?」というと、「不寝番の豊田※さんから聞いた。」そして「隣の奴が昨夜、医務室に煙草の火をつけに行くと、モウタが、婦長さんから何か注意を受けていたらしい。」ということをつけ加えた。


※豊田さん
福岡県大牟田市出身、旧関東洲大連の日赤の看護婦さん。患者へのあたりはよかった。



 四国ならぬ、朝鮮の坊ちゃん二人は「やった。やった!」とはしゃいだ。
 後は野となれ山となれ。
 いずれ、事故退院か。
 中隊に帰れば、退院下番は当分の間は舎内監視ということで、何れの営外作業も免除だ。

 早くモウタの顔が見たい。
 彼はとうとう昼までには来なかった。
 看護婦さんに聞くと、昨夜は2時間続きの不寝番をしたので、午前中休役とのことだった。
 午後出動した彼は、私にも長田さんにも何も言わなかった。

 そのことの縁で、それからあと、長田さんとは時々話し合うことがあった。
 「貴様、何しとるか!」に始った彼と私の石灰の縁。
 私も彼も、数多い事故にぶつかってはいることだが、おそらくこの『石灰ごっこ』の件は忘れてはいまいと思う。
 いずれにしても私がよくないとは、今になっては思っている。

 モウタは1回、患者を殴って気絶させたことがあったとか、それにこりて彼は患者には絶対に手をかけないということを聞いたことがあったが、太い腕を肩にかけられたときは、瞬間、どうなることかと思った。
 もし、あのとき偉大な助け船、阿部軍医少佐(通称、阿部さん)が入ってこなかったらどうなったか分らない。

 少佐は尺八の名手。三合里収容所のふけゆく秋の夜、えいえいとして流れる尺八の音に、だれもうっとりとして聞きいった。
 私は何回も舎外に出て聞いた。
 少佐は、尺八を戸外で吹奏していたけど、風の向き第でよく聞こえもしたり、全然聞こえなかったりした。
 三合里で散った多数の英霊は、少佐のたむける『手むけの曲の音』に必や、故郷の空を夢に見、「私は日本人であった。あの音のように育ってきたはずだ。」と静かに聞きいり、せめて、この世の名ごりを惜しんで逝ったことであろう。

 少佐は、「何したんか?」と言った。
 「患者が落書きしたんであります。」と答えていた。
 少佐は黙って眼を通した。
 「ふうん、お前たちはそんな気持ちでいるんか。眼が近いのう。」と言葉をつぎ、「どうせ、時期が来れば帰国できるじゃろ。必ずしもここから真直ぐに帰ることのみが、春に芽を出したことにはならぬだろう。シベリヤに行っても、あるいはウクライナに行って帰っても、やはり春の芽を待つことにもなろう。」

 なるほど、そう言われたらそうだ。
 少佐の言われるとおりだ。やっぱり少佐は少佐だ。
 必ず帰国できるということを前提として日々を過ごしている。
 少佐は、私たちとは比較にならない確たる人生観。

 また、つづいて「君たちがそう思うのも無理はない。シベリヤから転送されてきた君たちの体を調べると、向こうの状態は言わなくとも分る。」と、しんみり、声の調子を下げて言われた。

 私は「軍医殿、あの歌を作られたんですか?」と尋ねた。
 「お前、常識がないのう、俺もあの歌人と並ぶようだったら苦労はしないよ。」と笑っておられた。

 医務室を出て便所に行ってから、舎内に帰ってきた。
 帰りに医務室の中を見たら、彼が棒のようなもので柱をこすっていた。
 舎内に入ってからそのことを長田さんに告げた。
 長田さんはそのことの確認のために、医務室まで斥候の役を買ってでてくれた。
 モウタ衛生兵は、内心ではきっと、あの見つけた瞬間に1発でもいいからぶん殴っておけばよかったと後悔していることだろう。

 長田さんは斥候役を自ら承知したかわりに煙草を1本要求してきた。
 貴品袋から1服分ぐらい出してやった。
 「謝々シェシェ」(中国話でありがとうという意味)と軽くにこやかに片手をあげて受けとってから医務室に行った。

 長田さんは、強いか弱いかはとうとう分らずじまいだったが、碁ができたためによく医務室で打っていたことがある。
 無鉄砲に近いから、誰でもよいから「一局お願いします。」と入っていったようだ。今度も碁を餌にして入るのか、それとも煙草の火つけという口実かな、と思っていたら火のついた煙草をもって※すぐ帰ってきた。


※煙草をもって
煙草を吸いながら歩くことは厳に注意された。病棟内の喫煙はシベリヤの1936病院のようにまではうるさくなかった。しかし、ソ軍側の軍医には見つからないように気をつけていた。



 「おい、お前、えらいことをやったな。阿部さんが手帳に書いていた。」
 「ほう、それでモウタは?」
 「あいつ案外機嫌がいいぞ。」
 「珍しい。」

 結局は、この医務室によくやってくるロスケの中に日本語の分るのがいるから、見られたときに気分的に悪かろうということで、見えなくしようということになったらしい。
 そして窓の文字はやはり阿部少佐の字であって、また、モウタは大阪出身、家には妻子もいるとか、長田さんは年の功で様様なことを聞きだしていた。
 長田さんは病棟の移動があってからまもなく急逝したようだった。
 彼にもシベリヤ以来の戦友がいて、よく世話をしていたらしく、その人が私に、長田さんが「少し気分が悪い」といって、日光浴もしないで寝ていた頃、私のことも話していたとか、惜しいことだった。
 長田さんとは2週間ぐらいの知り合いの仲で終わったが、彼もまた私にとっては忘れられないひとりの人であった。

 その落書き以来、モウタ衛生兵は私には何もうるさいことは言わなくなった。
 彼が二伝の不寝番にきていたときいろいろなニュースを知らせてくれたり、注射をうたせたりしてくれた。
 長田さんたち、患者の移動があったとき、彼も二伝の専属よりその移動集団とともに転属になり出ていってしまった。
 他の患者たちはモウタ衛生兵の転属を喜んでいたが、私は別に悲しいとも嬉しいとも思わなかった。
 それよりも、たった一人の衛生兵のこごとや文句などでとやかく並べたてる患者の意気地なさの方が、より情けなく思えた。
 殊に「コレラ」の発生とともに日ソ双方の軍医、衛生兵の取締りが厳しくなり多少うるさくなりはしたが、他の患者に同調し、このうるさいことを患者同志の話題に私から出したことはなかった。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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