見出し画像

9.昭和20年8月16日~21日 苦戦の跡、続く行軍

 地名・地点・時刻・日数等の記憶が薄い。
 西口を下ってからは、夜間ごそごそ歩いていて、夜の明け方、山の中に入って蛸壷を作り、昼間は睡眠をとるというのが定石みたいになっていた。ソ軍戦車の進出が早いために、本道は通られないから、裏だけを、鉄道に平行して行軍しているそうだった。
 行軍の間、無数の友軍の軍馬のたおれていたのに何回も遭遇した。眼を撃ち抜かれてあてもなくさまよっている馬、全身黒焦げで横たわる馬、腸がはみ出して息が絶え、黒山の蝿が頭をおおっていた馬、悪臭があたり一帯を制圧していた。( 1-52 に記載)
 横になって倒れてはいても、死に切れず時おり頭をもたげようとしてあえいでいる馬、尻尾はつけ根部分しか残っていない大火傷の馬、それらは、みな物言わぬ戦士であるだけに、ひとしおあわれさをもよおしていた。
 夏の暑い日盛りに、草むらなどで苦しんでいる馬には、天幕や水囊に(折りたたみ式のズック製バケツのこと)水を入れて飲むだけは飲ませてやり、所詮短い命ならと銃殺してやったこともある。

 終戦までに(8月15日という意味ではなくて、武装解除をした日という意味である)友軍の自動車隊の全滅した所に2回(飛行機と、戦車の襲撃による)と、輸送部隊の軍馬が戦車に襲撃された地点1回は、先行者の生々しい苦闘を一見して悟らせる痛ましい証拠の現場でもあった。
 殊に、エンジンを飛ばされたり、完全に燃焼しきったりしていた自動車の一群のあった所では、その近くの草の中で、自動車隊の責任者と思われる将校、下士官達数名が、円陣を作って軍刀や拳銃で自決していた。
 この惨状は苦戦をしのばせるものがあり、皆、「仇はとるぞ。」と一礼した。
 屍は穴を掘り埋葬された。

 丸山班長が、「男のたしなみとは、いつ、いっても(死んでもという意味)恥ずかしくない態度だ。」と言い、関分隊長が、分隊の私達に、「どこで、誰がやられても、探しだし、必ず土はかけることにしよう。」と言っていたことがあるが、どちらにも相通ずるものがあるように思われる。

 むごたらしい人の屍、気高いと思ったことは、人生修業の最期を、恐れず、あせらず、時のくるのを待ち、「残念」、「苦しい」の後は、「水を」、その次は、「後を頼む」「色々お世話になった捨てておいてくれ」、と出血と衝動で急激に悪化し、死期、既に、分、秒の問題となってきている体のことを隠し、本能を殺し、自若として最期を全うしようとしている姿。
 血の色こそは失せはしても、たった今まで語り、そして息を引きとった友をすぐに土の下にすることは情としてしのびず、耐えがたいことではある。万止むを得ず、ソ軍兵の軍靴の踏むにまかせるか、風雨にさらすか、それとも狼の餌食となるよりも、せめてもの戦友のはなむけとして、穴を掘るか、さもなければ土をかけるかは人として故人の屍を尊重する上からいっても、重要な戦場の道徳ではなかろうか。
 しかしながら、私が死体に土をかけたことは、8月25日の夕方に1回しかない。
 誰にも見せたくないもの、それはむごい屍になった時の、自分の姿ではなかろうか。
 えびらに梅の枝を挿して出陣したという古武士の物語や、体に香水をたらして出動したという特攻隊員の望んでいたものなどは、かくの如く清らかに死んでいき、花のような香の薫る屍になった時の自分ではなかったろうか。

 友軍の軍馬がたおれているのを見て、かわいそうにと思い、戦死者に接しては物のあわれを感じて、南無阿弥陀仏と唱えていた。
 死体を見たり、人馬が腐敗した時に、そこら一面にただよう独特の悪臭をかいだりした時には、最初の頃は、食欲が減退し、食物が喉を通らなかった。ところが、度々、自動車隊とか輓馬隊等の輸送部隊の苦戦の跡を見せつけられるうちに、私の神経は鈍感になり、ほ伏して前進している時に死体があれば、伏せたままで死体を私の片側に引きよせてから前進したり、黒焦げの軍馬の上に乗り上って車輌の上の積荷を取り降ろしたりしていた。
 2回も遭遇した自動車隊の襲撃されていた場所では、夜間でさえも、自分の蛸壷から出て、小銃1挺に空の雑装を肩にして、長い道のりをてくてく歩いて積荷を取りに行ったりした。

 行くと、その往復には先客やら後の客に出合っていた。
 遭難したこれらの輸送部隊の積荷は食糧品が主だったので、1度その現場に出合わすと、相当な量の食品を手にすることができ、潤沢に各人に行き渡っていた。
 又、最初に軍倉庫を開放された時は、指示を聞かずに酒を持ち出し、全然飲酒はしない関分長以外の兵は思い思いにがぶ飲みした。その夜はあっちへふらふら、こっちへふらふら、吐く者もいたり、うなったりして行軍した大失態を体験した。だから私達の分隊だけでなく他の分隊でも、申し合わせたように、酒だけはいくらあっても誰も手をつけなくなった。酒を受けつけない程に体力が低下していたかもしれない。

 私が靴ずれで弱っていた時、自動車の積荷の中に毛糸で作った靴下が1箱もあったので早速分隊まで持って帰った。
 「分隊長殿、とってもいい靴下がありました。2足もはけば痛くはありません」と言った。
 すると、それをちらりと見た分隊長は、「なあんだ。そりゃ、防寒靴下じゃないか」と言っていた。

 せっかくの食糧品がいくらあっても、弾薬やその他の荷物があるために、そう多量には持つことができないから、どうしても糧秣の方は絶えず不足がちであった。
 8月17日、18日頃以後の4日間か5日間ぐらいの間は、全く穀類の顔をみることはなく「にら」や「すずらん」によく似ていた野草の根を掘って、飯盒でゆでて食べたりした。
 糧秣が切れだすのはどこの中隊とも、その時期は大体同じだった。同じ頃、どこの中隊も同じように困り、似たような野草を掘りあさった。
 糧秣の切れた最初の頃は、それらの野草も塩さえあれば結構誰も飛びついていたが、分隊員の中で、誰も塩の手持ちがなくなったらもう野草との縁はそれまでだった。
 いくら腹の中は水しか入っていなくても無塩物では食欲がでなかった。「あく」が強く、喉のところより奥へは通過しそうもなかった。

 そんな食料事情であっても、水と野草だけで、完全軍装ーーー1人の歩兵としての一切の装具、小銃とか擲弾筒テキダントウなどの兵器、それらの弾薬、雨外被アマガイヒ(布地に防水のしてある合羽カッパのこと)をつけた背囊、これに飯盒とか水筒、円ぴ(小型スコップ)ーーーの部隊が、1日に最高17里(4×17=68km)の強行軍にも耐え抜いてきた。
(鉄帽とガス面は数が充分なかった)

 興安嶺の山の中で、白系ロッシャ人の農家より、中隊で、米・粟・塩・牛1頭を買いあげ、各分隊に分配があった。
 10名の分隊に対して、米が飯盒の中蓋に1杯。白湯か重湯かといった感じの米の塩汁をすすって強行軍に移った。

 このあとの強行軍の時、大雨に降られ、飢と寒さのため私の小隊だけでも2名の犠牲者がでた。
 私の前の方の分隊員だったが、登り坂のぬかる道で、誰もが、1足1足、泥の中から足を引きだすようにして歩いている時、2名の兵が、ふらふらと重なるように列の外に出ようとしたまましゃがみこんでしまった。
 これが、誰もの見た2名の兵の最期である。( 1-56 記載)
 次の休憩地点で、同じ分隊の兵が装具のままで引き返し、雑草のおい茂る泥土の中に埋葬してきた。
 とてもあの状態では、生きているとは思えない寒い日だった。

いいなと思ったら応援しよう!