見出し画像

13. 昭和20年8月25日 号什台の戦闘・前編

 五重台の戦闘ーーー兵達の間では、最後の戦と呼んでいた。
 太陽がこれから輝かんとする前に、耳に聞えたものはソ軍機の爆音であり、薄れゆく夜のとばりと、晴れゆく霧の中で、眼に映じたものは、果てしもなく広々として、起伏のある五重台の高原であった。
 昨夜、友軍に、夜襲でもしかけられたのか、血まみれのソ連兵が折り重って転っていたとうきび畑で、寝ころんだ姿勢で手をのばしてとうもろこしをとり、血なまぐさい臭をかぎなから、伏せてのびたまま朝食らしいものを済ませた。
 既にその時以前に、大隊は散開していた。
 至る所で、がん、がんと敵の弾は炸裂していた。
 相当長い距離をほ伏して進み、伏せたまま、やっとのことで蛸壷を掘って入った。

 分隊長が、発射準備をしていろ、と言った頃になって初めて分隊員は、在満のロートル、田中古兵(岡山県出身、昭和20年5月現地召集の二等兵)がいなくなっていることに気がついた。
 彼は、とうもろこし畑までは、確かに私達といっしょにいたのに、散開して穴を掘り、気がついてみたら、もう、何処に行ったか、消えたのか、さっぱり分らなくなっていた。
 田中古兵は、行軍すればいつものことながら、落後の専門員だったため、弾薬は持たず、1筒分の軽い信管と、小銃を持たされていた。
 第二弾薬手の彼の在・不在は、私達、小野寺古兵の筒にとっては、戦闘能力に重大な影響を与えていた。
 筒手の小野寺古兵や第一弾薬手の私に信管を持たせなかった分隊長にも責任はあった。
 それかとて、そうやすやすと壕から出たら、狙撃されることは間違いないのでむやみと出られはしない。
 ソ軍兵もちらちらと見えたけど、彼等の姿勢も低く動きは敏捷であった。
 平野古兵の筒は発射していたが、たいした兵器のようには思えなかった。
 その度に、ソ軍兵が隠れていたようにも思えた。
 ソ軍兵は、いつの間にか、走れば追いつけそうな距離だったが、彼等も又、壕に入っていた。
 多分、昨夜からいたのかもしれないし、又、私達同様に、昨夜から寝てはいないであろう。

 分隊長が大声で、「後地、お前のは6秒弾だ。いいか、安全弁を忘れるな!」と、私の手榴弾についての注意をしてくれた。
 1回も投げた体験のない私には、分隊長が絶えず気を配ってくれた。
 頭上では2~3機のソ軍機がいて、しきりと急降下しては撃ちまくっていた。私達も、急降下してきたソ軍機に対して、ずいぶんと対空射撃をした。
 食うか、食われるか、といった激しい相互の撃ち合いだと勇ましいことを言っても日本軍側の射撃目標としたソ軍機には、誰のも命中しなかったのは事実だ。
 敵機は、時おり、超低空を飛んでいることもあったが、1機も墜落しそうな変化は見せなかった。スピードの極端に遅い、複葉の旧式偵察機が私達の頭上をぐるぐる回っていた。これは、ソ軍側の砲撃の着弾位置を観測しているらしかった。その、のろのろ旧型でさえもとうとう墜落しなかった。

 立ち上って走るということは、敵、味方共にちょっとできそうもない情勢だったが、ソ軍兵はよく立ち上って走ることがあった。( 1-71 に記載)
 その動作は実に速かった。
 立ち上ったばかりのソ軍兵を、私の撃った弾が命中していると確信できたのは、結局この日に2名であった。
 壕の中で小銃に弾をこめてから銃を外に出し、壕から顔を出すと同時に発射していた。小銃弾の入っていた弾薬盒は、前も後のも空になってしまい、背囊の中からも取り出して撃った。

 8月25日の朝からだけで、120発以上の小銃弾を撃った計算になる。
 小銃の銃身は、5発もどんどん撃ったらもう熱くて持てないので、拾って持っていた作業用の軍手をして射撃した。
 射撃の目標は、ソ軍機もあったり、敵兵の時もあったが、私にもたいして目標のはっきりしないのに発射した記憶がある。
 それにしても、120発も発射して、2名の敵兵というのは貧弱な射手のように思えるが、武装解除の時に、300発もの小銃弾を返納した仲間よりみれば、少しは、小銃弾を支給されたかいがあったように思う。

 筒手の小野寺古兵が、もう1筒の平野古兵に、「信管をくれ!」と盛んに怒鳴っているようだが、不規則に落下する戦車のロケット弾や、野砲弾、派手な軽い感じのする迫撃砲弾、それに友軍の小銃、重機、軽機の発射音の交叉する雑音でかき消されてしまい、何が何やら聞えなかったことと思う。
 私も対面していたソ軍兵が見えなくなり、友軍が1人、2人と進むのが見えると前進を準備していた。分隊長が手を挙げたり、小野寺古兵が合図をしてくれた時には、無我夢中で前方の壕に転げこんだ。
 最初は自分で掘っていた蛸壷も、しまいには、ソ軍兵の掘った浅く縦に長い壕か、友軍の先進部隊の掘った壊だったりしていた。

 あとあとまで、この日のソ軍兵との遭遇は合点のいかないことが多かったため、兵の間でいろいろそれを話し合っていた。

 高粱の畑の中で、「最期の砲台鏡だ。のぞかしてくれ!」と叫んでいた友軍の砲兵隊員の悲壮な最期や、死に切れず、「水!」「水!」とかいっている重傷兵、引いてくれるはずの主人を失って、あてもなく狂ったように駆けめぐっている軍馬、あちこちにごろごろ横たわっているソ軍兵や日本兵の死体を眼の当りに見た。
 畑の排水溝の泥水に直接口をあててすすったり、浅い河の中を這って前進したり、畑の中の野菜類(白菜、南瓜、胡瓜、ささげ、とうもろこしなど)は生のまま食べた。

 一方、撃つことも撃ったが、又撃たれることも撃ちまくられ夕方までこの日の激闘は続いた。
 どの方角から飛んでくるのか分らなかったが、一時、猛烈な砲撃が続いた時、1発が2間ぐらいの地点で炸裂し、その火花の瞬間に、顔を殴られたような衝撃を感じたことがある。
 何回も何回も、そっと、眼の下の頬骨のあたりに手を当ててみて、出血のないことを確め、そのうちこのことは忘れていた。
 翌日になって、その場所の痛みが激しく、内出血の跡がはっきりしてきた。
 分隊長が私を見て「石ころでもはじいたんだな。」、と言った。4~5日の間は、耳の前の所が紫色になっていて痛かった。
 もし、もう2~3cm上の場所で、眼に当っていたらどうなっていただろうか、おそらく、眼球を損ね、失明していただろうと思う。
 それとも、もう30cm~50cmぐらい落下地点の近くで立っていたらどうなっていただろうか、思うただけでも、ぞうっとする。
 それにしても、危ないところだった。

いいなと思ったら応援しよう!

キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
歴史に興味のある皆々様、よろしければ応援お願いします。今後も継続して更新するためのモチベーションアップのためサポートいただけると幸いです!