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45.昭和21年8月20日頃 ソ軍の毒ガス実地試験(?)、娯楽、夜盲症患者…

 昭和21年8月20日頃、田中兵長さんが中耳炎手術のために入院したときには、ほとんど毎日見舞いに行った。将校用の煙草をはじめ各種の貴重な品の入手ルートの自然消滅はなんといっても大打撃だった。

 兵長さんは京都の染物屋の息子さんで、家業を継ぐために、親の考えでよその染物屋さんに年期のない奉公に出されていた気のやさしい8年兵の兵長さん(28才)で、当時20才の私には「自分の弟のような気がする」といって何かにつけていたわってくれることが多かった。
 ヒイロク市の1936病院にいた時には、兵長さんよりも私の方が元気だったから、少しぐらいは面倒をみてあげたこともあった。その時の感謝の心が彼には強く残っていたようだった。

 別に報酬のあることを期待してお世話をしたわけではない。たまたま、シベリヤの病院で私が元気なときに手をかけた人に、北朝鮮という場所をかえ、しかも、元気になっていた兵長さんに、弱りきった私が再度めぐり会え、求めていない報酬を受けさせてもらったまでのことである。
 人にいいことはしておくものだと、つくずく思った。

 この隔離幕舎の第7大隊にいたとき、ソ軍機が超低空で幕舎の上空を、毒瓦斯ガスを散布して飛び去っていった。
 収容所の周囲では、朝からガンガンと耳が痛くなるほどの野砲の実弾演習をしていたから、どこかで花火見物でもしているような気分になっていた。
 ところがその毒瓦斯散布のために、物見遊山のような気分は一挙にふっとんでしまった。
 赤い星のマークの鮮かなソ軍機の後尾から帯のような幅のある薄い霧状のようなもの……それが毒瓦斯だった……が、飛行機の過ぎ去ったあと収容所の全域にただよいだした。
 何ともいいようのない悪臭の上に、息がつまるような、胸を圧迫されそうな感じ。

 京都出身の幕舎長、中川班長が「これが最期かもしれんな。きれいにいこう。」と皆に告げた。
 誰も、もしやここが最期という気がしてきたから、一瞬のうちに心境が冷静になった。
 そのため、毒瓦斯だと直感したときのように、走り回ったりせずに幕舎内に入り、カマスを開げて作った「むしろ」の上に座り、タオルで鼻を押さえ、次に起るであろう悲惨な最期のときを待った。

 このときの心境はどういったらよいか、短い時間ではあったが、長い時間だったようにも思えるし、夢中だったようにも思う。
 苦しいと感じたのはソ軍機の過ぎた直後だったが、すぐには、あの飛行機からの霧のようなものが毒瓦斯とは誰も気がつかなかったのに、それだと分って走り回り、少しでも新鮮な空気を探し水めようとした。
 それなのに、班長さんの言った「最期を飾ろう。」のひと言で幕舎内に入った。
 そのことは瞬間的な判断だが、誰も胸の中では、ここで終わりという気持になっていたからではなかろうか。

 まだ、毒瓦斯のため胸が押しつまるような最中に、伝令が「ただ今のはソ軍機の演習。」と走り回って告げた。
 その声と同時に幕舎の内外とも急に活気がもどり、再び騒がしくにぎやかになった。
 あとになってから毒瓦斯についていろいろな情報が伝わってきた。
 シベリヤでも、収容所の上空で散布しておいて、あれは間違いだったと、あとからソ軍側より通達があったことがあるという者もでてきた。
 ここでは、ソ軍が何か毒瓦斯の実地試験をしていたに違いない、という結論に落ちついた。彼等、ソ軍側よりみたら、私達は一番経費のかからない人体実験資材ではなかろうか。
 毒瓦斯の散布のあと、一部ではあるがソ軍側の軍医による診断があったようだ。

 こんなことに遭遇してみると、共産主義国家で唱えている“人格の尊重”というスローガンはますます怪しいように思う。

 そしてまたこの隔離幕舎にいる間に、住吉大尉や吉岡少尉などから、逃亡しないように、逃亡してもすぐに捕まり銃殺されてしまうというような訓辞があった。
 また、古茂山以来のポーミーとか「あかざ」だけのスープなど、栄養のかたよりのためか、一度にどっと多人数の夜盲症(俗にいう「とり眼」)の患者が発生した。
 その夜盲症患者が夜間便所に行って、その留りに足を落したり、幕舎を間違えて入りこんでみたりなどの小事件は絶えることなくつづいた。
 また、ここでは、ロスケの私的巡視があった。


 昭和21年8月中旬 隔離幕舎より健康兵舎に移動

 間もなく、富寧から後続の第8大隊がやってくるとのことだったので、なじみのわきかけてきた隔離幕舎をあけておくことになった。
 ソ軍側の命令によるとはいっても、収容所の囲いの内部で、更に別に念の入った囲みの中で生活するということは、あまり感じのいいものではなかったから、誰も早く隔離幕舎から健康兵舎に移動することを待ち望んだ。
 「今夜から瓦の下で寝られるぞ。」
 「もういくら雨が降っても大丈夫だ。」
 「便所には電気がついてるぞ。」などと、口々に、まるで子供のように喜々として、装具をかかえ兵舎に向った。
 その待っていた屋根のある兵舎の第一夜、暑い夏に冷ややかな板張りの兵舎はぐっすりと睡眠できるはず。( 2-46 記載)

 寝たと思ったら何か騒々しいざわめきがしているような気がした。
 おかしいなと思っていると、足から背にかけて妙にちかちかと痛い。
 あれ、ピンデ(南京虫のこと)かな。畜生!と思っていたら、隣に寝ていた兵が起き上ってきた。
 そしてその兵は、私を「おい起床!」とゆさぶり起した。
 「お前、無神経だな。」
 なる程、みたら、あちらこちらで越中褌1枚の骨と皮の昔の英雄達が衣類を念入りに調べていた。
 思いもよらない、それは「のみ」だった。
 機動能力の劣っている「しらみ」でさえもその処置には弱っていたのに、すばしこく機敏な行動力のある「のみ」には、宿舎の第一夜にして全く手を焼かされた。

 しらみと同じく、のみも各人がひとりひとり取っていたのでは効果が薄いということで、とうとう、住居移転の疲れを休ませることなく部屋の全員が起こされ、薄暗い電球のあかりを頼りに、ふけていく夏の夜を「のみ」とりにそのひとときをあててしまった。
 久しぶりの屋根つきの宿舎の板の間は「のみ」の襲撃と、その上にシベリヤの収容所の病棟時代の床ずれが再び痛みだしてきたりしたから、あまりいいものではないと感じていた。

 それでも、雨が降って毛布がじめじめしだしたり、風が強いといっては交代で起きて天幕を内側から引っ張っていたことを思えば、いくら雨が降ってもたいして濡れることもなく便所に行けるし、電灯もあり百足の心配もない兵舎の方がだいぶいいと思った。
 天幕というのは昼間は暑く、夜間にはいくら夏でも体は冷えた。
 やはり幕舎生活は体に合わないらしい。
 幕舎にいた頃、叺を解いてその藁で草履を作るのに、1度にやっと片方だけ作れば疲れていたのに、兵舎に移ってからは1日に1足ぐらいは作るだけの根気がつづくようになった。

 この健康兵舎の生活は、3日か4日に1回、炊事の薪取りだけがたった1つの営外作業だった。
 清掃、自活農園の作業……大根、白菜、ほうれんそう、さつまいもなど……入浴場、便所の汲みとり、馬屋の雑役(主に草刈り)、ロスケの兵舎の雑役(ごみ捨て、薪運びなど)、炊事の使役(主に薪作り、たどん作り、馬鈴薯の皮はぎ)、埋葬の使役、病棟内での炊事当番(食事の受領と食器の整理整頓)舎内外の清掃当番、小隊内での不寝番、衛兵勤務(夜間の逃亡防止と火災予防)など各種の勤務や、突発的な作業があった。
 これらの作業は多数で割りふりするから、そう体力に響くほどの負担にはならなかった。

 要するにこれらの営内作業は、使役集合のときと、終了したときの点呼の際に頭の数がそろうことが大事なことであって、一汗かくというほどのことはなかった。
 だが使役にはそれぞれ特色があるため、使役要員には退院下番(退院したばかりの者)や、健康者とかにより、分隊内で適当に区分して割りふられた。

 日曜日※以外には、毎夜、明日の作業割りが収容所の舎営本部より中隊の指揮班まで伝達されていた。その伝達を小隊へ、更に小隊から各分隊まで、各作業要員が割り当てられていた。


※日曜日
炊事場と病棟だけは日曜日にも作業があった。そのどちらにしても待遇がよいため、誰も行くことを希望した。


 分隊までおりてきたその作業割りを、分隊内で個々に割り当てるのだが、この割り当てが一大問題であった。
 あとから考えれば何でもないことばかりだが、待遇がいいとか悪いとか、体がきついとか楽だとか、それに作業時間の長短にいたるまで、各人がめいめい好き勝手に自分の意見を出していた。
 『待遇がよい』といったところで、よくて、せいぜい昼食か炊事の残飯の握り飯や「こげ」、または巻き紙つきの煙草の一服ぐらいなもの。
 時期にもよったけれど、作業に出ていく者よりも残りが多く、いつもは大半の者が兵舎の内外でぷらぷらしていることが多かった。
 そのため、マージャン、将棋、碁、トランプ、花ガルタなど各自で製作して遊んでいた。
 ひまと、体力がついてくるにつれて、日曜日ごとに収容所内で野球大会、角力大会なども開かれるようになり、演芸会などは前日よりその日のだしものの下馬評をしたり宣伝したりしていた。
 この演芸会などは、昭和21年12月ともなれば、そのままで一座を組んでやれば内地ででも通用するぐらいの玄人級になっていた。当初の頃のように飛び入りばかりで進行するといったことはなくなった。

 3日に1回の割り合いでの甘味品(まんじゅう、ぼた餅、板豆、ゆで小豆、ぜんざい、桜まんじゅう、ボーロ、パンなど)も、日曜日ともなれば殊のほか手のこんだことがしてあった。
 それらの甘味品の甘味は、別名で【バクダン】と呼んでいた、工業用の黄色固型の砂糖で味つけがしてあったから、食べ過ぎたら下痢をすることが確実だった。
 そのように質そのものはあまり上々ではなかったが、甘いことと、内地情緒たっぷりだということで皆喜んでいた。
 時々他の中隊から浪曲、講談師、漫談家などを借りてきて、夜の点呼が終ってからゆっくり聞き夜の1時か2時頃までも、秋の夜ながを楽しんだこともあった。

 そんな夜によくでくわしたソ軍側の夜間演習のすさまじさ、興安嶺ではなじみの深かった照明弾、信号弾をぽんぽんと打ち上げ、重機、軽機の猛烈な連続発射音を響かせていた。
 昼は昼で、飛行機につけた吹き流しを標的にした高射砲の実弾射撃やら、野砲の実弾射撃という具合に、昼夜の区別のない激しい訓練をまじかに望み、「可愛相に。」と捕虜であるはずの日本兵の側で話し合っていた。

 夜盲症患者のための不寝番

 隔離幕舎にいたときより発生していた夜音症患者は、健康兵舎に移動してからもその数は多くて、夜間にそれらの患者が便所に行くための案内人が考えだされてきた。薄暗い裸電球の便所でも、目の見える健康兵にはありがたかったが、夜音症にはそんな電球では何の役にはたたなかった。
 電球に灯がついているぐらいしか感じていないそれらの患者には、とてもその足もとまでみきわめることはできなかった。( 2-50 記載)

 私がその夜盲症の便所案内の不寝番についていたとき、自分自身はまだ毛布の上に座っていて「不寝番!早くこい!」と横柄に呼んでいる夜盲症のところに行ったところ、確か伍長か何か、下士官だった。
 人にものを頼むのに生意気な呼び方だ。
 夜盲症患者は、夜間に便所に行きたくなったら土間まで降り、手さぐりで靴をはき、板の間に腰をかけ、杖をもったりしていて「不寝番殿、お願いします。」と呼んでいた。
 軍の階級は上の人であっても、夜の便所案内のときには誰も敬語で不寝番に依頼していたのに、まだ毛布の上にいながら「早くこい!」とは、いささか常識はずれ。
 「不寝番、不寝番と偉そうに呼ぶな!この野郎!」と言った。
 そしたら、私の声がすまないうちにもう隣の中隊の不寝番がとんできた。
 「そいつはなげとけよ。俺は2、3回開いたが、あんまり生意気言うのでなげておいた。下士官でも遠慮するな。腹が立ちゃぶん殴ってもよい。文句があるなら俺のところにこいと言え。俺は指揮班の高橋だ。(曹長だった)」
 そしたら、その夜盲症の患者の小隊長らしいのが起きてきた。
 「この野郎!班長のくせに分らん奴だ。立てい!」と、いきなりその班長を張りとばしていた。
 ふと気がついてみると、この班長さんは私の中隊の患者ではなかったので、他の患者が呼んでくれたのを幸いと、すぐその場を離れた。

 翌朝になってから聞いてみるに、高橋曹長※と例の夜盲症の班長とは、今までにも多少のいきさつがあるらしかった。


※曹長
下士官は、伍長→軍曹→曹長の順であって、曹長には「曹長殿」と呼び、伍長、軍曹には「班長殿」と呼んでいたように思う。


 夜盲症ではこのほかに、夜音症が治癒したかどうかという試験のようなものがあったこともある。これは夜盲症患者用の黄粉、肝油の配給量に制限があるためだった。
 その方法は、夜、地面の上に石灰で約50cm巾の平行線を作っておいて患者を歩かせ、線を踏まずに歩いたら合格、つまり夜育症は治癒していたことになるという簡単なものだった。
 しかし、この夜盲症の中にもいいかげんにお粗末な者もいて、当の夜盲兵が暗夜に逃亡するという事件が起きたこともあった。
 この兵は自分と同じ分隊の者が便所不寝番をしているときを狙い、その不寝番のところまで行き、地下足袋がかわっていたといって、他人の上等の地下足袋とはきかえ、同じ夜盲症の仲間とつれだって逃亡したというのだから、全く人を食った話である。

 また、朝早くから草むらを歩きまわって鮭をとらえ、湯わかし場で焼いて食べたりしたが、ひき蛙が1番うまかったようだ。
 三合里の収容所の草むらでは当分の間、蛙も蛇もいないかもしれない。

 大ニュースとしては、昭和21年8月17日か18日頃、行先をはっきり「シベリヤ」と知らされて、秋乙津より1個大隊、1500名の健康兵が元気よく出発したということを聞かされた。
 おそらく平壌地区では最後のシベリヤ行きの兵だと思われる。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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