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3.昭和20年8月9日 ソ連と戦闘状態に入る

 20001部隊到着。
 白城子から以北の鉄道は軍用鉄道だとか、地方人は1名もおらず、入隊者ばかりだった。
 日がすっかり上ってから発車、汽車が動きだしてから、昼食の握り飯の配給があった。
 途中の各駅は、兵隊が警備していて、国境に近いんだなということを感じさせられた。窓外の景色を見ると、民家はあまり見あたらず、野山もあまり開発してないようだった。
 そして、各駅とも、いちように停車時間が長かった。

 「あと1里で兵舎だから、下車準備をしろ。」と、警乗の兵隊に言われて、風呂敷をしめ直したり上衣を着たりしていたら、急に兵隊が銃を持ってデッキに出て行った。
 爆音が聞えてきた。
 1機、双発の爆撃機でだいぶん低空を飛んでいる。
 列車の真上を逆行して機銃掃射を浴びせてきた。
 列車は急停車し、兵隊は飛び降りて、あちらこちらで対空射撃をしているその一方で、将校が「下車、散開、散開!」と怒鳴っていた。
 私達は無我夢中で草原の中に飛び込み、小さくなっていた。
 はっきりと見えた赤い星のマーク。ソ軍機だ。
 様子がおかしい。
 間もなく、汽車は、汽笛を吹き流しながら徐行しだし、兵隊が、「急いで乗れ!」とか、「乗車!」「負傷者はいないか。」などと言っていた。
 こんな所で乗り遅れては大変なので、皆は必死になって飛び乗った。
 乗り終ったら直ぐに人員点呼、皆、汗を流していた。薬きょうを拾ってきた者もいた。薬きょうの直径は3cmは充分にあった。
 兵隊は、がやがや騒いでいる入隊者に、「国境近くになれば、こんなことは普通だ。」と言っていた。
 わずか、1分か2分そこそこの瞬間的なことではあったが、変な所にきたものだと思った。


 やがて汽車は止ったが駅はなく、沿線の、列車の行進方向に対して右側に、鉄路より約150mぐらい離れた所から、川合にある農林省中国試験場の畜舎のような並びかたで兵舎が並んでいた。
 必要な時だけ停車しているそうである。
 アルシャンの20008部隊に入隊する者が、がらあきに近い汽車の窓から手を振っていた。
 50mも歩いたら歩哨が立っていた。
 兵舎からも迎えが来て、将校集合所へ案内された。将校集合所といっても何も設備らしいものはなく、板張りの床の上に、2つ3つ、大きな四角の火鉢と正面に机が1脚あっただけだった。
 ここで簡単な訓辞らしいものを聞き、各中隊に配られた。
 私は、3大隊の10中隊(藤川隊ともいっていた。)に配属になり、中隊長の藤川中尉より、「しっかりやってくれ。」と言われた。

 1人の下士官(丸山班長)に案内されて、薄暗くなってきた坂道を歩き、三好君(ハルピン在住、愛媛県出身)と2人で、もぐら式の兵舎に着いた。
 入口にむしろが垂らしてあるせまくるしい階段を降りると、大きなランプをともして明るくしてある部屋があった。
 9日の午前中に入ったばかりの韓国人が、私服を軍服に着かえていて、古参兵のような顔をして迎えてくれた。
 見るところ、この兵舎の中では下士官の丸山班長、上等兵が1名(川合上等兵)と、三好と名乗ってくれ、たった今、名前を覚えたばかりの同じ新米と、私を含めて4名が内地人で、他は全部韓国人のようだった。
 彼等に負けてなるかと、むらむらと、奮発心が湧き上ってきた。
 韓国人の兵隊に敬語で便所の場所を聞いていたら、三好君が私の後で、「おい、お前も新兵だろう。」とその兵に言った。
 彼は、無言で、便所を指で示して教えてくれ、「私たち、皇国臣民あります。日本人と同じです。」と答えた。
 日本語を知らないのだろう、彼の友違らしいのが、笑いながらなにやら説明していた。
 全くたいしたものである。
 世界の一等国の軍隊内で、その国の国語が通用しないとは…。最後まで私達の癌は、在満のロートル(満洲国在住の召集兵のこと。30才代の後半を過
ぎている彼等は、とかく、動作がとろく、行軍にも弱かった)と、8月9日に入隊してきた日本語を知らない韓国人の初年兵であった。
 又、これらのロートルや、未教育もはなはだしい韓国人までも駆りださねばならない程、時局は苦しくなっており、そして、それだけ軍そのものも弱体化していたのであった。

 間もなく、藁布団と戸棚の個人用の場所を教えられた。
 私の藁布団の上に坐って、瀬戸物の食器で、まぐろの味噌汁に大豆飯ダイズメシの夕食を食べだした。
 夕食を食べ終ると、さっきの上等兵がやってきて、韓国人に食器の後始末を命じ、三好君と私に、「すぐ休んでよい。明日は入隊式がある。」と、言ってくれた。
 やれうれしやと、肌ざわりは至って悪いながらも、毛布の中にもぐり込み、ぐったりしたと思ったら、すぐに、「起床。」「起床。」と起された。
 軍服を着用している韓国人が、もう一人前の兵隊のように、通路に並んでいる。
 三好君と私と2人並んだところで、上等兵より、「俺の名は、カワイ上等兵(川合上等兵)。」と教えられ、被服庫に連れていかれた。
 大きなランプで照らした被服庫で、被服一切を受領し、その場で着せられた。
 (ズボンのこと)の紐の結び方から、編上靴ヘンジョウカ(皮革製のあみあげ靴、靴裏に鋲打、割と重かった)の紐の通し方に至るまで、一々法則があるらしく丁寧に教えてくれた。
 そして、今まで着ていた私服類は、持ってきた小包の材料で包装し、荷札をつけた。
 小包が終ると、略帽(俗にいう戦闘帽のこと。正帽は黒色のひさしがついており、褐色だった)、脚絆キャハン(ゲートルともいう。幅10cmぐらい、長さ2mぐらいの布で、これを足の膝から下に巻き、脚をひきしめていた)、帯剣を身につけると、外見だけは一人前の兵士となった。

 川合上等兵が、「お前、臨適リンテキ※か。」とか、「故郷クニはどこだい。」などと話しかけてきたりした。


※臨適
徴兵検査は満20才で受けることが、納税、小学校に就学させる義務と並んで、国民の三大義務の一つになっていた。
戦局が不利になり、戦線の兵に不足を生じたため、昭和19年より満19才で徴兵検査を受けなければならなくなってきた。
この満19才での徴兵検査を、『臨適』といっていた。
私も、この『臨適』である。



 身のまわりの装具が揃うと、もう広場に出て整列であった。
 何が何やら、何も分らないままに、暗い坂道を、三好君や川合上等兵の後からついて行った。
 整列してから、各分隊に、初年兵が配属された。
 幸いにして三好君とは同じ分隊に配られ、大川、宗本という2名の韓国人と共に初年兵が4名もいたので大変心づよかった。
 編制が終ってすぐ、三好君の初めて、私に対しての口ききは、「後地、お前、ずいぶんと耳が遠いのう。」だった。
 分隊に行くと、弾薬を少量分配されたが、別に重いとは思わなかった。
 各隊が出発準備を終了すると、編制順に日の出山※の陣地に向かい出発した。


※日の出山
20001部隊や、20002部隊が、開戦と同時にたてこもっていた陣地。
日の出山の要塞ともいっていた。



 吉林からここまでの、長い旅の疲れを休めるわけでもなく、直ちに移った夜間行軍は、苦しいとも、辛いとも、そんなことを感ずるよりは、とにかく分隊員に遅れまいと無我夢中で歩いた。
 日の出山への途中、「本日より、ソ連と戦開状態に入り、詔書が下された。」との訓辞を聞き、緊張感は高まった。
 2月に入った現役連中は、「やるぞ、ロ助!」と、手をたたいて奮いたっていた。

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キンクーマ(祖父のシベリア抑留体験記)
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