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1.昭和20年8月5日 出征の日

昭和59年8月9日(木)後半タイプ始める。

 昭和20年8月5日 吉林チーリン出発
 待ちに待った出征の日、故郷を離れて幾千里、御民我、よくぞ男に生れける感激と、日の御旗ミハタ胸に秘め、奉公袋の点検を終え、壮大な大理石の吉林師道チーリンスードーターショ大学の校舎の前に、すがすがしい大陸の夏の朝風を浴びて、5名の同窓生と整列した。
 思えば、いく多の同窓、先輩を送った身が、今は送られる身となり、7月の終りに1片の現役入隊命令書を受領してからは、居残りに対しては、まるで家主のように振舞っていた。
 一斉掃除や、朝夕の点呼などには出たこともなく、何かことがあると、ふたコトめには、「くんじゃないか。」と、伝家の宝刀の如くやたらと連発していた。
 未適齢ミテキレイの者もそれ以上には相手にはしなかった。
 入隊する者への特別配給酒、1人について3升もあった。
 僅か20名そこそこの内地人学生しかいないのに、その中で、出征者8名(内、3名は2年生で、特別幹部候補生ーーーこれには乙種と甲種とあって、師大より出ていったのは将校になるための甲種の方だった。だから、こちらの方は、特甲幹と呼んでいたーーー)もいたので、8月に入ってからは、毎日、毎夜、教官の官舎に行って前途を祝し合った。
 師導大学は、同年7月のはじめ、北支より、大砲は1つもない砲兵隊が移動していて校舎と寮に住み込んでいたため、せっかく寮に帰っても、出征前の祝賀は遠慮気味だった。

 それでも、グライダー訓練をした際に支給された官服を500円、訓練靴を300円という値で、暗市ヤミイチ※で売り飛ばしたりして、出征組の長が、半日も帰らされないで、教官室をたらいまわしにされ、1枚の始末書を書かされている間に、支那料理店やら、暗市から、あるいは民家から材料を集めて、祝賀の準備だけはしていた。


※暗市
満洲国人のたむろしている市場、紙から糸、肉、衣類と、そこに行けばなんでもあった。古本などは、中に書いてある内容とか、本の質的な価値などは一切無関係に、1キンについていくら、つまり、紙の重量で値段が違っていた。



 満洲国の文教部(日本の文部省にあたる)より、新しいグライダーが支給されたことがあった。その時、新京(現在の長春)より、吉林まで、トラックで運搬したのだが、その自動車を運転した現地人の運転手を買収して手に入れた白酒パイチュウを出したりして、なかなかの景気だけはつけた。ーーーこのトラックは白酒を燃料としていたーーー
 出征の際の携行品も、国旗を3流、幹部候補生の願書、山口先生の奥様に作ってもらった貴重品袋、森田先生の令嬢の御守り袋、新京の順天病院で調達の薬品、暗市で買った歩兵操典、石鹸、さらしのふんどしなど、足止め※が吉林の領事館より送付されるまでには全部揃えていた。


※足止め
正式の入隊命令が出される10日ぐらい前に、入隊にそなえて旅行禁止命令の通知が配られていた。
この旅行禁止の通知書のことを「足止め」といっていた。



 5日の朝は、何だか、出る者の調子がおかしかった。
 起こされもしないのに起き、連日のグライダー訓練でくたくたの残留生をたたき起こした。出発準備を済ませ、寮を出て、校舎前に行った。
 「しっかりやれ、俺も征くぞ。」
 「おい、鮮人、満人になめられるな。」
 「後は頼んだぞ。」
 「貴様、こづかいがなくなりゃ、官舎の俺の荷物※を売ってもいいぞ。」
と、互いに別れの挨拶をかわし、教官より別れの訓辞を聞いた。


※出征する学生は、図書や寝具などをまとめて、教官の官舎に運び込んでいた。



 集合時刻は、吉林駅前12時になっていた。
 歩いて行っても間に合うが、今日は誰もけちけちしなかった。
 しかし、学校から吉林駅まで2里の間を馬車マーチョ代20円で乗る習慣だけは守った。
 吉林駅前で、極上車(漆のような塗料の施してある馬車)の客が50円、40円、30円と、値引きのかけひきするのはあまり体裁のいいものではなかった。

 駅前には、多数の日本人が集まっていた。韓国人もいた。
 至るところで合唱している。
 早速私達も、校歌やら、何やら、水筒に入れておいた日本酒を飲みながら、ど鳴った。
 顔見知りになった警察の兵事係の警官が一杯機嫌で、自分が出征するような顔をして、到着者の氏名を開いていた。(吉林の領事館は、吉林警察署内にあって、警官が事務をとっていた)
 警官は日頃腰にさげていないせいか又は歩きにくいのか、軍刀を手で持っていた。
 間もなく、さっとあちこちの合唱が静かになった。
 憲兵が来て注意したらしい。
 汽車が来ないのに、見送り客が帰りだした。
 防諜上からの手段らしい、教官が交渉して、学生は、発車に際して発言しないという条件付きで特にホームでの見送りを許可してもらった。
 一方、韓国人の方は、折って、ちょうど日の丸が真中にくるようになっていた鉢巻を1本ずつもらい、国旗をたすきにしたり、手に持っていたりしていた。
 日本人の方は、出征する態度を表すことは一切不可とあって、日の丸の旗はおろか奉公袋にいたるまで風呂敷に入れさせられた。
 吉林始発新京行き13時30分の汽車に乗り、窓を開けば、もう官舎の奥様方は、ハンカチで涙をふいていた。
 居残り組も、プラットホームの憲兵(軍隊の警察官のようなもので、防諜上のとりしまりや、反戦思想の摘発などの言論の統制までしていた)に気がひけてか、何も言わなかった。
 汽車がすべり出すと共に、征く人、送る人、ともに無言で挙手の礼のまま別れた。


 晴れての出陣に、何となく、身も心も、引きしまるような感激に打たれた。
 何度か通った京図線も、この日、この汽車は、加減が違う、私も国家の御役に立つのだ。父上、母上、祖母よ見守ってくれ、学徒出陣の栄を担い、現役兵として征くのだ。迷わず、たじろかず、真っしぐらに己が本分を尽すのだ。
 今日あるが故に育てられた私の体だ。
 日本人としての責を果すのだ。
 後輩よ続いてくれ。無限に、そして力強く後に続いてくれ。


 急行ではないが、3時間かかって到着した新京の空は、日本晴れの吉林とは違って少々模様が怪しかった。
 駅前で、出迎えていた旅館、ホテルの人に引き渡され、それぞれに宿舎に向った。
 私達、吉林出発の日系20数名は、駅に近い新京第一ホテルに宿泊することになり、韓国人は、韓国人の旅館だった。
 ホテルに落ち着いてから、ひと雨降った新京の町を、最後の自由のタべとして、あちこち散歩した。
 明日の集合は、新京駅前午前10時になっているから、いくら、ゆっくりでも間に合うからと、深夜の1時、2時頃まで町を歩いて帰った。ホテルでは夕食が準備してあったので、ホテルの食事も記念にと、誰も無理して食べた。
 各階段毎に電話があったので、面白がって映画館に電話をかけ、「明日は何がありますか。」とか、駅にかけては、「奉天行きは何時ですか。」などと聞いたりした。
 しまいには、ホテルの中の交換台から、「学生さんですか、もう寝なさいよ。」と言って、受付けてくれなくなった。

 5日の新京は、熱河省の部隊や、ハルピン方面、107師団の20001、20002、20008部隊など、種々の部隊の現役入隊者が集まっているので、にぎやかに夜はけていった。

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