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音楽戦争

天才は主体であると同時に客体にもなり、

詩人や役者であると同時に
観客にもなるからだ。

ニーチェ『悲劇の誕生』(1872年)より

さびしくなると人は音を鳴らすのだろうか。

その村にある施設のなかでは、身寄りのない小さな子供たちが、訳あって本当の父さん母さんから、引き離されて暮らしていた。村人はどことなくよそよそしく、自然の豊かさに相反して自分のことでいっぱいいっぱいな奴ばかりだった。人に濡れ衣をかせることを楽しみとしている輩まで存在しており。

伝言ゲームは3人目で作り話に変貌する。10人目に達したとこで、違う人の話に変わっている。

だかしかし、その10人目の人物像を人びとは信じ込み、狂信的になり、排他的、迫害的思想へと結びつく。

そのネガティブな行為が悲しい行動となり、その行いは災いを招き、その人の人生となる。

自分の立場が脅かされることがあれば、人々は狂気のサタン、あ、いや、狂気の沙汰。小さな戦争が勃発し、死者がでることもあった。いわば殺人事件を装った内乱だ。ナタを振り回したゾンビ(村人)たちのしどろもどろ生き血をかけての決戦。

施設利用者たちは、規則正しい生活のなか。少々古風な教えのなかで教育されていた。令和と思えないような鉄筋作りの建物とコンクリートの壁は塀という言葉がピタリ来るようなシロもの。

看板も走る車もどこか思わせた、平成。

その少女は、施設の中のお皿や缶、家具や財布、文房具なんかを一日中叩いていた。とくにリズム感があるわけでも、テンポが正しいわけでもないのだが、少女が鳴らす音は周囲の自然とハーモニーしていた。木々の揺れる音、小鳥たちのさえずり、そして教職員たちの会話をも温かいものにした。あれあれ、天才がなんでこんなところにいるんだろう。誰からも見つけられず、気づかれず、ただそこにひたすらに存在している。まるでそれは生息区域を抜け出した、でいだらぼっち。

天才少女は一日中叩き続けた。そして鳴らし続けた。その音は周囲の世界に光を波及しているかのようで、聴いていると喉の奥から喜びが込み上げてくるかのような躍動感があった。

暑い夏でも、寒い冬でも、来る日も来る日も少女は身の回りで音の鳴るものを叩き続けた。その姿はまるで明け方の西の空のように清々しかった。

目は静かに微笑んでいて、口もとにはいつも綺麗な歯を覗かせていた。その姿はまるで白鷺のようであった。

連なる模様やリズミカルな装飾を見るとホッとするらしく、14歳になった彼女の部屋には、幾何学模様のパンフレットや貼り紙の切り抜きなど、イビツで少し不気味に思えるアートが散乱していたが、そのアートにふれている時の少女は

太陽の瞳。キラキラ輝いていた。

皆さんは天才が必ずしも、世に出るとおもいますか、生きているうちに社会的な賞賛を得られると思いますか?そして誰かの手によって売り出されることはおろか、当の本人が売れたいと思ってるとお考えでしょうか?

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