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インサイド・ヘッド2

夏休みに読書感想文を書かなくて良いところも、大学生の良いところの一つなのではあるが、せっかく鑑賞したものをどこにも出力せず終えることほどもったいないことはない(と思っている)ので、本日見てきた「インサイド・ヘッド2」の感想を書いていくよ。ネタバレあり。


あらすじ

記憶だけで書いているので、間違っている箇所があるかも。あと省いている箇所も大幅にある。ごめん。

飛ばされる5人

数年前に公開された「インサイド・ヘッド」の続編である今作は、前作の設定をほとんどそのまま引き継いでいる。アメリカのミネソタ州に住む少女、ライリーの頭の中には、5つの感情たちが存在する。ヨロコビ、ムカムカ、イカリ、ビビリ、カナシミの5つの感情が、いつもライリーをみまもり、ともに豊かな人格を形成して行くお話である。

今作は、13歳になったライリーが、高校で行われるアイスホッケーの強化合宿に参加することになるところから始まる。(正直この辺りは日本と外国で制度が違うと思うので、13歳で高校の合宿に参加するのは違和感があるが、まあいいことにする。)

ライリーは親友の二人とともにその高校のホッケーチーム「ファイアーホークス」というチームに所属することを夢見るのだが、行きの車の中で親友二人が別の高校に進学が決定していることを告げられる。
いつも一緒だと思っていた親友に若干裏切られ複雑な感情になったところで、頭の中に新たな感情が生まれる。

このとき登場する新たな感情は、シンパイ、ダリー、イイナー、ハズカシの4人。彼らは幼い頃からあった5つの感情に代わって、ライリーの感情の主導権を握ろうとする。

そして、シンパイは13年かかってようやっと開花した「感情の花」を記憶の彼方に追いやり、さらに5つの感情たちも司令部から追い出してしまった。

新たなライリー


シンパイたちは、感情の花の根が張っている、司令部の遙か下にある泉に自分たちの都合の良い感情を投入し、あらたな感情の花を咲かせようとする。

「今までのライリーじゃなくて、これからのライリーのことを考える。」という信念のもと、シンパイはあらゆる可能性を想定し、そして親友たちとの関係を切ってファイアーホークスの人たちに同調するようにライリーを誘導する。

そして「ファイアーホークスに入らなきゃ」「もっとアイスホッケーを上達させなければ」と、心配というか強迫観念に近いような状態にライリーは陥って行く。

親友たちに取り合わず、無理にファイアーホークスの人たちに話を合わせ、ついにはコーチの評価ノートを盗み見するまでに至る。


飛ばされてしまった5人の感情たちは、記憶の彼方に追いやられた「感情の花」を司令部に持ち帰るべく奔走する。前作でほとんど弱みを見せることのなかったヨロコビがいらつきと悲嘆を見せる意外な場面もありながら、彼らは司令部を目指す。

本当の思春期

ヨロコビたちはなんやかんやあって司令部に戻ることに成功したが、しかしそこではすでに新たな「感情の花」が開花していた。

もともとの感情の花は「わたしは、いい人」という言葉を発していたが、今度シンパイが無理矢理咲かせた感情の花は、「わたしは、全然だめ」という言葉を発した。

これはシンパイも意外だったようで、その後、合宿最後の練習試合を行う中でも事態はどんどん悪化して行く。シンパイはなんとか挽回しようとするが、ライリーは独善的で攻撃的なプレーを繰り返すばかり。

盗み見したコーチのノートに記載されていた自分に対する評価が芳しくなかったことを気に病み、自らが得点を挙げることに執着するライリー。

しかしそこに、ヨロコビたちが帰ってきた。彼らはシンパイを計器板から離し、ヨロコビたちはは新たな花を咲かせることに成功した。

ヨロコビたちは映画の冒頭で大量の「いらない記憶」を記憶の彼方に追いやっていたが、シンパイたちに追い出された後司令部に戻る過程の中で、その「いらないと思っていた記憶」たちが、感情の花が根を張る司令部の遙か下の泉になだれ込んできたのである。

そしてその記憶たちが思春期になったライリーの、より複雑な人格の根源となったのだ。

ライリーは今までよりも多くの様々な感情を有する人間へと成長し、いろんな形の感情の花が咲き続けることになったのである。

めでたしめでたし。

かんそう

感情と記憶の複雑化、感情たちそれぞれの多様化

本作はライリーの「思春期」のはじまりを舞台として物語が繰り広げられていくが、おそらくこの「思春期」の意味するところは本作では「精神の複雑化」的なところに焦点が絞られているような気がする。

まず、司令部に現れる新たな感情たち(シンパイ、イイナー、ダリー、ハズカシ)たちがそれを象徴しているだろう。特に思春期に現れる感情として不安や嫉妬、羞恥、無気力は非常にわかりやすい。

それ以外にも、もといた感情たち(ヨロコビたち)自身にも、多少そういった変化が生じているように思われる。

あらすじの中でも述べたとおり、途中でヨロコビが「私たちはもうライリーにとって必要ないんじゃないか」とヨロコビらしからぬ悲嘆を見せる。またイカリがそんな状態のヨロコビを優しくなだめたりする。
まくらのいえの中の作業場では、おのおのが明るいアイディアを出し合うシーンもあり、カナシミもマイナスな感情の中にライリーへのポジティブな思いを結構純粋に打ち明けるシーンも多かったように感じる。

加えて、蓄積される「記憶」が、様々な感情の色が入り交じった状態のものが増加しているように思えた。もしかしたら気のせいかもしれないが、前作ではほとんどが単色の記憶ばかりだったように思う。ひとつひとつのおもいでも、単純に「楽しい」「悲しい」などそれだけで完結するものではなく、複雑な感情を内包するものへとなってきているのだろう。

シンパイのビジュアル

ちょっとこれはどうなんだと思ったことがある。シンパイのビジュアルだ。

彼女(一目ではちょっと判別しがたいが女性らしい)だけ、他の感情に比べてあまりにも独特な見た目になっているような気がする。

そもそも感情たちの見た目はかなりこだわっているように見える。ヨロコビは主人公(そもそも誰が主人公なのかよく分からないが)らしく、わんぱくで明るい印象があるだろう。TwitterではADHDみたいなどと揶揄されていた記憶があるが、存在しないキャラクターに対してだとしてもそういうことを言うのはよした方がいいです。
カナシミ、イカリは強い感情なだけにかなりデフォルメされており、かわいい感じになっている。ビビリ、ムカムカもおのおのの役柄にあった感じであり、ムカムカさんの男性ファンは結構いると思う。ムカムカは「ムカムカ」というよりなんだか典型的な日本のツンデレキャラに見えてくる。自分だけか。

今回新登場したキャラクターもビジュアルは悪くは無いと思う。イイナーはきゅるるんな見た目で、ダリーもダウナー系の雰囲気をまとい、ハズカシも巨漢だがいわゆる「かわいい」感じになっている。

そしてそもそもハズカシにはプラスポイントの行動も色々あったし。

ただちょっとシンパイの見た目もうちょっといい感じにならなかったのかとは思う。海外だとあの見た目にどういう受け取り方がなされるのかはよく分からないが、しかし映画の中では基本悪役であまりいいシーンがないだけに、もうちょっと融和的、というか、なんならヨロコビの対置的な感じでもうちょっとなんかこう、、、とは思った。

結局シンパイにヘイトが残ったままに成ったような気がして、すこしむずむずするところもある。

あとは、「シンパイ」という呼称にも少し違和感が残った。代案を出せと言われたら相当難しいのだが、それはつまり、「ヨロコビ」とか「ムカムカ」とか「ハズカシ」くらい明瞭な感覚で名付けするときに、シンパイの行動に上手く当てはまるような日本語がないからである。

シンパイは英語版では「Anxiety」と言う呼び方で、これは確かに心配や不安を意味する英単語ではあるのだが、シンパイは不安を感じるだけではなくそれに対してめちゃくちゃ一筋に対策を施そうとする。

私の有する日本語で言えば、「危惧」が最も彼女の行動に適する形容であるように思う。

でも「キグ」じゃあ変だよな、、、。
あの子の扱い方難しいですね。

抑圧・妄想

途中で一瞬だけ「抑圧された感情」とか「妄想」といったキーワードが出てくるんだけど、ちょっと精神分析的な要素を加味しているのだろうかなと思いました。

この映画はどうねんですかね、実際に何かの精神構造のモデルを参考に世界観を作っているのだろうか。

何かありそうな感じもするんだけど、別になさそうな感じもする(実際の作品中での使われ方は特に医学用語的な抑圧・妄想と一致するところではない(と思う。(しらないけど。)))。

「わたしは、全然だめ」

映画のクライマックス直前に、シンパイが無理矢理咲かせた感情の花から、「わたしは、全然だめ」という声が響く。

これはシンパイにとっても予想外のことであった。

しかし私は正直この場面でこの映画は傑作であると判断した。まさに、人間の心理ってこうなるよな、というか。

この場面は非常に共感性が高かった。シンパイしまくって、明日の不安にさいなまれる日々が続くと、自分の能力がどうであろうと自分の過去がどうであろうと、自らを卑下する方向にいつの間にか走り出すものなのである。

謙虚さとも、向上心ともとれるかもしれない。それは確かに勤勉性につながり、能力を向上させ、見栄えの良い結果を生むことになるかもしれない。

しかしそれではだめなのだ。自分の心に「わたしは、全然だめ」という声を響かせる感情の花をさかせるだけなのである。


この映画を見るときは、シンパイの台詞に一番耳を傾けるべきだ。彼女は悪役的なポジション(必ずしも悪役ではないので、表現が難しい。)だ。

しかし彼女の台詞をよく見てみると、その「ストイックさ」「勤勉性」「先見性」みたいなものは、世の中で多くの人間が提唱するテーゼに一致するところが大いにある。

シンパイのような行動を要請する言説は、半ば一般常識的なものとして社会に溶け込んでいる節すらある。もちろん、その言説は一定程度の説得力と真実性を内包するものとして存在するが、ただしかし、それを突き詰めるだけでは本当に大切な感情を失ってしまうのではないかと思う。

そしておそらく世の中には、「シンパイ」に心を支配されたままの人間が多く居る。もしかしたら私もその一人だったかもしれない。

そうでなくてもあの司令部の計器板が正常に作動している人間が世の中にどれくらいいるだろうか。


失ってしまった感情は、なかなか戻ってこない。
おそろしいことである。

インサイド・ヘッドは、感情を失い心を崩壊させた人間たちに、心の健全な作用を見せてくれる、理想的ではあるが、ある意味では皮肉的な、そういった作品なのかもしれない。

おやすみなさい。良い夢を。


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