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脱自我について、あるいは死生観ver.2024

 というツイートをした。いわゆる「90年代不謹慎カルチャー」の真髄は「脱自意識」にあるのではないか、という思いつきだ(「脱自我」のほうがしっくりくるか?)。

 実際、上に挙げた他にもみうらじゅんは「自分なくしの旅」ということを言っているし、当時の西原理恵子のマンガでも、ちょっと細かい部分は忘れたが故・鴨志田穰について行って、タイでは人がばんばん死んでゆく、それを間近で見ていると、人なんてなんとなくわらわらと生まれてなんとなく死んでゆくものだなあ、というような話があったと記憶している。
 死体ブームにしてもそうだ。なんのために好き好んで死体ビデオなんぞを観るのか。それは趣味としては低級かつ俗悪ではあるけれど、まがりなりにもメメント・モリなのである。

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 他にもいくらでも例は出せるが、べつに90年代不謹慎カルチャーの性質について論じることが主眼ではない(ぶっちゃけ、違うなら違うで別にいい)ので、話を先に進める。

 思うに「脱自我」とは、半分死ぬことである。
 
そういう観点からは、死こそが完全な脱自我であることは論を俟たない。逆に言えば生きるとは自我(自意識)を持つこと、自分「である」こと、自分「として」存在すること、である。
 脱自我は、物理的な生命をストップさせはしないものの、自我であるところの生から降りることである。
 なんのために?
 もちろん、自我を持つことはしんどいからだ。上のツイートで「自意識からくる見栄やら思想やら」と書いたが、その部分の根本敬の文章を正確に引用すると、

自我、自意識、自尊心、理想……。それらより派生する見栄や自惚れや劣等感や優越感や羞恥心、思想や主義やドグマだとかそういった意識の産物たる諸々

『トンデモ悪趣味の本』所収、根本敬「茶の間のピンヘッドは無意識の殺人者!?」

 となっている。まあ「思想や主義やドグマ」を否定することには僕は左翼シンパとして躊躇があるが、それにしても「見栄や自惚れや劣等感や優越感や羞恥心」によって日々いかに消耗しているか、ということをつらつら顧みるに、そういう苦しみの根源である自我や自意識などいっそ捨ててしまいたい、と思えてくるのは至極当然ではないか。

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 そんなわけでけっこう生きることに疲れているのである――まあこれは必ずしもネガティヴな発言ではなくてね、だいたい生きるってことはやがて衰弱して死ぬことを意味するわけだから、そりゃ青年の盛りを過ぎればだんだん疲れてくるのは当たり前なんであってね。

 Twitterでは安田はネアカだと言われがちだが、そういうことを言われれば言われるほど、せっかくネアカというイメージを持ってもらえているならそれを崩すのももったいないので、この程度のネガティヴに取られかねないことでも言いにくくなる。
 畢竟、一人でつらつら考えることになるのだが、嵩じて今夜なんか『現代思想』の反出生主義特集なんかを秘かに手に取ってみたりしているんである。ども…こんな時間に反出生主義の本読んでるヤベーやつ俺以外にいますか? っていねーかはは。

 反出生主義特集についてはちゃんと読んだらまた書こうと思う。今日の話の続きとして。
 今は反出生主義について大した知識もないので、たんなるお気持ちだけを書いておくが、確かに生まれてくるというのはプラマイでいったらマイなのではないかと思える時もある。喜びと苦しみの量が釣り合っていないように、確かに思える(ちなみに、反出生主義における「生まれてくることの否定」は「自殺の肯定」ではない、という程度の知識は持っている)。

 さすがに具体的に自殺を考えたことはないのだが(結局のところネクラにもなりきれないんでしょう)、まあ、死は色々な面倒なことを一気に片付けてくれるよなあ、程度のことはたまに思ったりする。
 たとえば僕くらいの年齢になると周囲に親の死の話が急激に増えるのだが、親の死というのはそこに至るプロセスにしてもあるいは死んだ後にしても相当に大変で、こういう言い方をすると不謹慎かもしれないがかなり「面倒臭い」ものだ。
 それに比べて、自分の死は後始末がないうえに現在と未来のタスクを、一瞬ですべて片付けてくれるのである。親の死に比べて自分の死はじつにインスタントだ。

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 で、死にはしないけれど生にまつわる苦しみを緩和したい、と考えると、マイルドな自殺、自殺抜きの自殺(ジジェク風)としての「脱自我」「脱自意識」が燦然と輝いて見えてくるのである。
 つまり自分であることをやめる、「見栄や自惚れや劣等感や優越感や羞恥心」――それらこそが生の根幹であることを認めつつ(逆に言えば活き活きと生きたいんだったらこうした感情を虚栄心だとか我欲だとかいってむやみに否定するものではない、と思っている)、それらを捨てること、である。
 思えば多くの人が仏教に求めるものもそういうものなのかも知れない。なんとなく僕にとっては、『スッタニパータ』や『往生要集』や中村元やなんかもそりゃ読んだことはあるし、仏教的他界観であるところの地獄についての本などは多少集めたりもしているけれど、それよりも、どういうわけか不謹慎カルチャーを通してこそ、自ずとそういう思考に至れたのである。

安田所蔵の地獄関係本。なんでこの画像をここに貼るのか? 本文が『別冊宝島』しか引用していないからである。やっぱり見栄ですねえ。

 さて大体書きたいことは書いたので、今日はこのくらいにします。とはいえこの話はまた続けるかも知れませんね。
 それではまた(・ω・)ノ
 


 

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