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人間関係のデトックス

 誰が、とかどのやりとりが、というはっきりした一つがあるわけではなく、なんとなく他人全般の感触が不愉快だ、イライラする、のけ者にされている、居場所がない、誰ともしっくり来ない…という気がしてきたら、人間関係のデトックスの頃合いだ。
 とはいえ縁を切れとか友達を減らせとかそういう話ではなく、「人と交わりすぎて中毒気味」「一人の時間が足りていない」ということである。

 先日、串田孫一のエッセイをぱらぱらめくっていたら、ある箇所で誰かがいたく感激したらしく、赤鉛筆で大きく「今の自分の気持だ」と書き添えてあった。その箇所というのがこうである。

一人になつた時、しかもそこに、のけ者になつているとか、一人でいる甘さが消え、ほんとうに一人になつた時に、自分の心の中に極く自然に湧いて来る他人への愛、あるいは集つて生活している人間への愛、それを澄んだ心に感じ、それを、余計な期待なしで育てること、これが孤独の教えてくれる大切なことだと思います。

串田孫一『生きるための思索』以下太字は安田による

 さらに串田は言う。

いつも背かれたような気持で生きている人は不幸です。けれどもそのような時には一度、すつかりと孤独になつてみて、そこで新しい出発の用意をすれば、必ず惰性で、ただごやごやと生きているよりは、深さのある生活が始められるのではないでしょうか。

同書

 これは見事な逆説だと思った。
 つまり「のけ者になつている」ような心持ちだとか「背かれたような」感情というのは、孤独というよりまだ充分に孤独ではないのだ、と串田は言っている。
 さらに一歩進めて言えば、そうした疎外感こそが実は、人込みの中にいるときのありふれた感情であり、疎外感は人と交わることの本質の一つだとも言える。なお今回は誰がコミュ障とか誰が人気者という話はまったく関係ない。それなりにうまくやっているような人にも、こうした疎外感は誰にでもあるのではないか。

 いかなる物質も多量に摂取すれば中毒になるように、交友関係にも摂りすぎがある。現代人は便利なソーシャルメディアの副作用で、孤独と交友のバランスを失っているとも言えるだろう。

 物欲しげに人の群れを伺うカラスではなく、ひとり空飛ぶよだかになれ。そうして充分に孤独になった時に、澄んだ心にじわじわと他人を愛せる気がしてくる、そういうところまで孤独になってみるよう串田は勧めている。そしてそれは、静けさのなかで自分を取り戻し、深度をもった生活を始めることとも繋がるという。

 *

 さてさて。
 ちょっとマジな空気が出ちゃいましたが、他人との交わりを見つめ直すとか人間的成長という話を別にしても、一人で趣味に没頭したり、じっくりひたひたと心が深まるような時を過ごすということは、それ自体がかなり心地よかったりする。少し他人の気配に疲れているように感じたら、おすすめです。
 それではまた(🕯️ω🕯️)ノ✨


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安田鋲太郎
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