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「リミナルスペース」概念の面白さを伝えたい

 リミナルスペースという概念の面白さを伝えたい。だが伝わるのだろうか。僕の文章力には限りがある。それにだいたい、物事には同じものを見ても面白いと思う人と思わない人がいるんであって、どう語っても絶対にリミナルスペースを面白いと思えない人もいるだろう。地味っちゃ地味だしね。それはどうしようもない。
 まあそんなに気負わなくていいか。しかしXやnoteのフォロワーさんとかは、僕を信用して、ちょっとだけ我慢して付き合ってほしい。

 さてリミナルスペースとは何か。ずばりこういう画像とか動画のことだ。

Liminal Hospital Hallway #3 - AI Generated Artwork - NightCafe Creator


 つまり薄暗くて、人がいないホテルの廊下とかで、不気味なんだけど癒される――というような情景をいう。
 ただし絶対に無人でなければならないかとか、建築物の内部でなければならないわけでもないようだ。

Liminal Spaces but it's Only Good Vibes | Ambient Chillout & Atmospheric Dreamcore (playlist)

 
 たとえばこういうのもリミナルスペースと呼ばれており、ようするに誰かが「これはリミナルスペースだ」と思えばそれはその人にとってリミナルスペースなのである。
 僕などはエドワード・ホッパーの「ナイトホークス」(夜更かしの意)、あれなどは屋内でもなければ無人でもないが、非常にリミナルスペース的であると思う。有名な絵なので貼る必要はないかも知れないがいちおう貼っておく。

Edward Hopper「Nighthawks」1942


 どこかしら不安に感ずるが同時に安らぎもするというのはアンビバレントな話だ。それらは通常、相反する感情だと思われている。
 しかし、考えてみると芸術上、そのようなマイルドな恐怖と癒しが同居する作品群ってけっこうあるんですよね。たとえば先日このnoteでも紹介したクービンの絵画。


 それから、音楽ではミニマルミュージックやアンビエントもそのような、心細さと静寂というアンビバレンツを持っている。下の動画はクービンの代表作とアンビエントミュージックを同時に鑑賞できるので、観てもらえばより言いたいことが伝わるかと思う。


 さてこれらの音楽については度々言及しているので、今回はちょっと、その始祖であるサティの「ジムノペティ」と「グノシェンヌ」を貼っておこう。さすがに周知かも知れないが一応貼っておくことに意義がある。
 どちらかといえば「グノシェンヌ」のほうがマイルドホラー味が強いかも知れない。


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 少し語ります。
 廣田龍平『ネット怪談の民俗学』という、半月ほど前に刊行されけっこう話題になっている本がある。実際、一読してかなりの労作だと思った。
 そのなかでリミナルスペースについても幾つかの観点から言及されているのだが、とりわけマクルーハンの再来とも言われるレフ・マノヴィッチのテーゼを援用している箇所が興味深かった。
 マノヴィッチによれば、90年代以降のニューメディアではデータベースがナラティヴに対して優位に立っているという。

文化的形態としてのデータベースは、世界を項目のリストとして表象しつつ、そのリストを秩序づけようとしない。それに対して、ナラティヴは見かけは秩序づけられていない項目(出来事)どうしの因果関係の軌跡を作り出す。したがって、データベースとナラティヴは天敵どうしである。

『ネット怪談の民俗学』p.206


 さらに廣田によれば、その指摘はインターフェイスだけでなくリミナルスペースというコンテンツそのものの性質にも当て嵌めることができる。すなわち、

リミナルスペースの不穏さは、何かがあったのではないか――しかし分からないという、繰り返される答えのない問いに留めおかれることに由来すると言われる。これはナラティヴを構築できないことへの不安であるとも言い換えられる。そして本章で取り上げてきたネット怪談/ネットホラーの多くは、そのような不安や不穏さをこそ中核にしている。もはや恐怖に物語(ナラティヴ)は必要ない。

同書、p.270 以下太字は安田による 


 なるほど実際、リミナルスペースに頻出する薄暗い廊下やラウンジといったイメージは、個々の部屋=物語が始まる前の中空に留め置かれた状態を表している、と言うことが出来るのではないか。

 このことは、例えばマーク・デリーがサイバースペースを「迷宮的な館の廊下」に例えたことを強烈に想起させる。以下のnoteでも触れたことがあるが、いま一度引用するので上記のリミナルスペース論と読み比べていただきたい。

モデムを使って電話回線を通じてバーチャル・スペースに長時間接続する人々は、しばしば「場所感」(ゼアネス)という奇妙な感覚を報告している。ある[電子]会議室から別の会議室へとさまよい歩き、進行中の議論を立ち聞きしていると、一種迷宮的な館の廊下をさまよって、部屋から部屋へと頭を突っ込んでいるのにも似た奇妙な感覚を経験するというのだ。 

マーク・デリー『エスケープ・ヴェロシティ』p.13


 そうなのだ。その時我々は、まだなにも始まっていない、あるいは何かが終わってしまった後の、中途半端な、廊下的な空間を彷徨わざるを得ない。
 未だどこにもアクセスしていない、今後出来るかどうかもわからない――それが「不安」や「孤独」の正体である。逆に積極的に関与してくるものがないぶん、それは「癒し」や「くつろぎ」にもなりうる。

 してみれば、「ナイトホークス」をリミナルスペース的だと言った僕の直観もそれなりに当たっていたのではないか。つまり、夜道でそこだけ明るい光を放つバーを外から眺める徘徊者的視線は、都会のなかで何にもアクセス出来ない状態に留め置かれていることの孤独、寂しさ、心細さを十全に表現し得ている。
 そういう、夜道をさまよう孤独について書いた下記のnoteでも、僕はナイトホークスについて触れていた。


 このように、さまざまに今まで僕が言及していたものが一つに繋がったのでリミナルスペースという概念には秘かな興奮を覚えたのだが、この記事では、そこから一歩考察を進めてみよう。

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 思うに、薄暗い廊下やラウンジをさまよう、あてどもなく夜道を徘徊する、バックルーム的空間に迷い込む――こうした情景には、どこかしら人の根源的な心を揺さぶるものがある。
 人生を出来事の連続として捉えた場合、見落としがちなのは出来事と出来事にはかならず「あいだ」があることだ。レイヴの合間にチルがあるように(だからこそ典型的なチルアウト・ミュージックであるアンビエントもまた「リミナルスペース的なもの」と言いうるのだ――すべては繋がっている!)、いにしえのサイトとサイトの間には相互リンクのページがあるように、あるいは恋愛と恋愛のあいだに孤独な生活があるように。我々はかならず、繰り返しそこに立ち戻される。
 次の出来事はいつ起こるかわからない――あるいは永遠に起こらないかも知れない。そうした状態に我々は「留め置かれて」いる。孤独な老人や単身・独居者、病人等々であればむしろそうした時間のほうが長く、親密なものに感じられるだろうし、「神様から見れば人はみな病床の少女」という言葉があるように、どのみち人が経験できるこどにさほどの差はないともいえる。
 

wikipedia「リミナルスペース」より

 そう、リミナルスペースに繰り返し立ち戻され、やがて別の場所に辿り行くが必ずまた帰ってくる――それは我々の人生そのものなのである。しかも出来事に対応している間は一種の自動的な運動に身体も思考も多くを委ねている以上、実際にそれらを吟味し、過去と未来、自己と世界、現実と幻想に思いを致すのは、出来事の「あいだ」=リミナルスペースにいる時であると言える。
 リミナルスペースは、世界あるいは人生という不可解な迷宮をさまよう我々一人一人の心細さと、それでもその心細さの中にこそ束の間の安息がある、といった心の両面を表現している。

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 といったところで、今の段階で言いたいことは言い終えたので、このあたりで終わることとします。
 リミナルスペース概念の面白さを伝えたいという文章だったのだけど、伝わったかな? どうでしょうね。それではまた(・ω・)ノ

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安田鋲太郎
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