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座右の銘は?


よく、座右の銘は?と聞かれる機会が多かった。学校でも職場でも。今はあまり人と会わないので聞かれないけれど、高校生までは、誰の言葉か知らないけれど、

「迷ったときは、楽な道より、想う道へ進め」だった。


 というわけで、高校、大学、社会人になってからもやりたいことを徹底的にやって、資格を取り続けた。直ぐに取れるものから、8~10年、そして今も勉強しているものもある。

時は流れ、「趣味は?」と聞かれると、その資格を持っているものを答えた。生半可に知ったかぶるのが嫌いだったからだ。今よく、「はまっているものは何ですか?」と聞く人が多い。はまる、ということは、相当真剣に毎日やっているものだと、勝手に思っていた。だから、はまっているもの?と聞かれると自分はプロ級の物を答えていた。資格はたくさん持っていたので、その中からも自信のあるもの、聞かれても何でも答えられるもの、ってね。

そう思っていたから、人もそうだと信じていた。

座右の銘もそのころは「継続は力なり」だった。

しかし、現代の人は、ちょっとやっただけで「はまっている」というのだ。20代の子が「今ね、数独にはまっているの」と言ったので、「すごいね、私も少しやったことあるけど、中級までかな。今はどのくらい?」と聞いたら、数独に、初級、中級、上級があることさえ、知らなかったのだ。衝撃をくらった、ええええ?

「え?はまっているって、どのくらいからやっているの?」と聞くと、2,3回らしい。はまっていると言う次元が違う。日本語、大丈夫なのか?

日本人がこのごろ、語彙力が無くなっていると思う。短絡思考なのだ。

すぐに答えを求めてくる。「うまいね、コツは?」「答えは?」

ハウツー本が売れるはずだ。ハウツー本を本という。あれは、本ではない。

ショートカットだ。でも、そんな風に世の中はできていない。簡単にうまくなれるものなんてこの世にはないのだ。あんたにできるなら、誰にでもできる、ってこと。そういう根性なしが増えた。スマホでなんでも調べられるからかもね。ネット自体を私は信じていない。ネットは教科書でも正しくもないから。誰かが書いたもの。偏狭なもの。正しいことは辞書か、研究者出版の本を読んだほうが正しい。それも知らないこどもたち。調べて信じて良いのは出典元が書かれているものだけだ。

結局、ゲームさえもクリアできない子供が増えた。

なにもできない。できないとつまらないからやらない。という具合。

わたしは時間がかかればかかる、難しければ難しいほどの有意義な資格を取るのが好きだ。

指導員と呼べる資格をたくさん持っている。簡単には取れない。

すぐに答えも見つからないし、努力しなければ身に付かない。

薄っぺらい人とは何を話しても面白くないのだ。

このごろの人の話を聞いていると、ころころハマるものが変わっている。なんということだ。誰かが言ったことを真似している奴らばかりだ。

ひろゆきが言っていた、論破した、詰んだな、など。内容はない、からっぽだ。自分が何を考えているのかさえ説明できない人間ばかりだ。

というわけで、座右の銘を最近変えた。

それは、初心に還って

「為せば成る、為さねばならぬ何事も」にした。


父が書道家、母はマナーの先生、姉が医者。ということで、私はあることを教えている(趣味)先生だ。

はまっているものは、本当に最後まで知っていることにしてくれ。

薄っぺらい話をされると、相槌も打たなくなる。私は人に優しくないからだ。ゲームはクリアしてから2年は遊ぶ。クリアしてからがゲームが始まると言っても過言ではない素晴らしく奥の深いゲームがたくさんあるからだ。

作った人が感動してくれるまで遊び続けるってこと。

人の顔色、流行なぞ、くだらねぇ。

いいか、知ったかぶってんじゃね~ぞ、がっかりだよ、おまえらには。

「人生に近道はない」

「人生に勝ち組も負け組もない、いかに充実したかが問題だ」

とかね。まったく、スッカスカなんだよ、何を聞いても。

だっせ~~~と言ってしまう、意地悪な私だった。

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