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浅田彰「熱い60年代、冷めた70年代 そしてニューアカブーム」中央公論2025年1月号
(建築物の)重厚なファサード(建物の正面)などの「形」にはもはや意味がなく、情報が集積・交換・発信されるグリッド(格子)さえあればいいというわけですね。(中略)
この丹下組のスーパーモダンな情報環境を、プレモダンな土偶のポストモダンな巨大パロディとも言うべき「太陽の塔」で突き破ってみせたのが、岡本太郎でした。(中略)
「科学技術の先端を見せるんだから、芸術の先端も見せればいい、大衆に分からないぐらいでいいんだ」と政治家も官僚も経営者も言っていたし、観客も「わからんなあ、しかし、すごいなあ」と言っていた。そういう意味で、70年大阪万博は戦後の復興と近代化のひとつの到達点であるとともに、ポストモダンへの屈曲点でもあるといえるでしょう。(中略)
(2025年大阪・関西万博は)「背伸びしてでも先端を」というのではなく、幼児でも楽しめるようにとことん敷居を下げるのがポストモダン資本主義の至上命令なので、結局、ゆるキャラやロボットが歌い踊るのが関の山ということになってしまうんでしょうね。(中略)
『構造と力』(83年)は、同じ年に出た中沢新一さんの『チベットのモーツァルト』とともにベストセラーとなり、「ニュー・アカデミズム(ニューアカ)」ブームを牽引することになります。筑紫哲也さんが編集長を務めていた週刊誌『朝日ジャーナル』の、「若者たちの神々」という恥ずかしいタイトルのインタビュー連載で、坂本龍一さんやビートたけしさんなどと並べられた(ちなみに83年は坂本さんやたけしさんが出演した『戦場のメリークリスマス』が公開された年です)。思想も音楽もお笑いも、あらゆるものがファッション・アイテムとなるポストモダン状況でした。
長い引用になってしまった。筆者は「ポストモダン」という言葉の正確な定義を知らない。「構造と力」の著者である浅田氏の文章から、「ポストモダン」のイメージだけでもとらえられれば、と思い熱心に記事を読んだ。
浅田氏は、ゆるキャラを「幼児でも楽しめるようにとことん敷居を下げ」たモノの代表のように言う。筆者はゆるキャラについてもよく知らないが、幼児というよりも、大人がむしろ楽しんでいるイメージがある。SNSに投稿すると、いいね、がもらえる確率が上がる。
「太陽の塔」が「ポストモダンな巨大パロディ」ならば、ゆるキャラはポストモダンの2025年における到達点、と筆者は理解する。
すると、「ポストモダン」とは、要するに「大衆化」「大衆社会化」ということなのだろうか?
もう少し学んでみたい。