湯舟に肩まで浸かったら 呪縛が解けて、居場所が見つかった。

仕事を辞めた。それもたった半年間で。

入社初日に抱いた違和感は見事に的中していたのだ。
“立つ鳥跡を濁さず”なんてことわざがあるけれど、泥水もいいところ。
真っ黒に濁したオフィスをあとに、短い在籍期間にも関わらず両手いっぱいに増えていた大量の荷物を抱えて地下鉄に乗り込む。

いい歳をして、幼稚な去り方をしてしまったことを反省しつつも、金輪際、マウントを取り合う先輩の姿や、後輩(わたし)を踏み台にしてまで上司にゴマをする教育係の姿を目にしなくて済むと思うと、開放感のほうがいくらか勝った。

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選択に後悔はない。今後も書き手として役立てる仕事がしたいという展望もある。しかし、世の中は未曽有の災禍。次の居場所はそう容易く見つからない。
お祈りメールでスマホが震えるたびに、これでもか言わんばかりに自尊心が削られていく。
もともと、コピー用紙くらいの薄さしか持ち合わせていないから参ったもんだ。

疲れてしまっていた。

そのことに気が付いたのは、やっとの思いで面接にこぎつけた西堀江のおしゃれなオフィスでのこと。胃のあたりがムカムカし、何を話したかまったく記憶がない。(※決して圧迫面接ではありません、穏やかで優しい面接官でした)

結果はもちろん不採用。
それからは希望職種で求人が出たとの通知を見ても、以前のように気持ちがときめず、転職サイトを開く回数も減っていった。

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いつもより温度を高めに設定し、お湯を張る。
慣れないヒールで、慣れない都会を歩き回った両脚を労わりながら、肩までしっかりと体を沈めると、凝り固まった頭が少しずつほぐれていくのがわかった。

恋愛でいう、メンヘラ状態だったのだと思う。

「書き手」になるために、手放した選択、かけた時間、費やしたなけなしの貯金。

そんなものにばかり執着して、
「書くことが好きだ」
という純粋な気持ちは、いつしか小さくしぼんで、ヘンテコな形に潰されていった。

柔らかくなった思考は、いまの自分に必要なことを教えてくれる。
「自分自身を解放しよう」
これが、わたしの答えだった。

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それからは「書き手」として雇ってくれる会社を探すのではなく、「書くこと」と向き合う時間を確保できる環境を見つける方向へ舵を取りなおした。ほどなくして、事務職として内定をもらうことに成功した。

少ない残業時間と、安定した休日。
あとは自分のやる気次第。

やっと、スタート地点に立てた喜びを噛みしめていると
面接官(のちに取締役だと知る)が口を開いた。

「業務に慣れたら、これまでの経験を活かして広報面にも力を貸してくれませんか?」

願ってもない展開に、心のなかで大きくガッツポーズをとりながら、
「よろしくお願いします」と返事をし、面接会場をあとにした。

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2018年 夏
あるライターさんの出版イベントに参加するため、東京を訪れていた。
終盤に行われた質問コーナーでの一幕をいまでも鮮明に覚えている。

ある方がこんな質問をした。
「ライターになるために積んでおくべき経験は?」
決して安くはない飛行機代のもとを取らねば。そう意気込んでいたわたしは、メモを取るペンを握りなおした。

回答はこうだ。
「この経験を積んでくださいといった限定したものはありません。ただ、経験がものをいう仕事であることは間違いないので、目の前の日常をしっかり体感してください。焦ることはありません。“いつかなってやる・絶対になりたんだ“という強い気持ちを手放さなければ、積み重ねた日々は将来、ライターとしての大切な経験となります。」と。

***

肩書は「ライター」ではないけれど。
でも「書き手として役に立てる仕事がしたい」と奮闘した経験が今回の縁を結んでくれたのだと、心からうれしく思っている。

胃のムカムカに耐えながら、面接会場をはしごしていた数か月前の自分へ
諦めなければ、焦ることもないさ。

新しい環境を前に緊張している自分へ
ひとつずつ、丁寧に積み重ねていこう、自分の過去に感謝しながら、楽しんで。

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