「勉強しか出来ない」とはどういう状況なのか
年末自分の地元に帰省した。
そこには昔、自分が使っていた勉強机なんかも置いてあり、当時勉強していた自分自身の姿を思い出したりなんかして、束の間の余韻に浸ったりしていた。
思い返してみれば、確かに自分はペーパ―テストはよく出来たのであるが、当時からペーパ―テスト以外の勉強はあまり出来なかった。
今回、考えたいのはそもそも論として「勉強(ペーパ―テスト)しか出来ない」とは一体どういう状況で、そこからどのような事態が想起されるかという点である。
自分自身の事例を基に考えてみたい。
1.文化的な教養や土台がグラグラ
これは筆者のパターンであるのだが、ぶっちゃけ中学時代以降に勉強のスパートをかけた点、自分が興味のある分野しか勉強していないことから、文化的な教養とか政治の話になるとかなり疎いし、では理系的な話が出来るのかと言われるとそういう訳でもない。四字熟語とか全然知らないし、漢字もろくに書けない。テレビでやっているようなクイズ番組の問題に答えることが出来るような広範な知識を有している訳でもない。唯一ある程度自信を持って語ることが出来るとすれば、マクロ経済の動向とかファイナンスの話であるが、これは教養と言うよりかは実務的な側面が強い知識の類である。教養とは少し違う類の話なのではないかと考えている。
正直何でこんなことも知らんの?と言われることが多い。
歴史に関しても、日本史と世界史の大雑把な流れや教科書で出てくる論点には答えることが出来るのだが、教科書から少しでも逸脱すると全く答えることが出来ないし、知識もない。
恐らくペーパーテストに関係ない知識かつ自分の興味関心に沿わないものに関しては脳がシャットアウトする仕様になっているのではないかと思う。
またペーパ―テストで学んだ内容も試験が終われば頭の中から消えてしまっていることが多い。
学歴と普段の会話にギャップがあるタイプの東大卒は周囲にいないだろうか。筆者はその1人である自覚がある。
2.運動系サ―クルに多い
勉強しか出来ないと聞くと、言い方は悪いがオタクや文化系の男性を想像しやすいと思う。普通の大学であればそうなのかもしれないが、東大に限って言えばそれは当てはまらない。まず東大の文化系のサークルはレベルが高すぎて、受験勉強だけが得意なタイプでは全くついていけない。
筆者も新歓の時に、少しだけ文化系のサークルを回ってみたのだが、あまりのレベルの高さに正直ドン引きしたくらいだ。
その点、運動系のサークルは懐が広く、競技によっては大学から始める初心者でもウェルカムだったりする。バドミントンやテニス辺りであれば、初心者メインで構成されているようなサークルも存在する。しかもこのような初心者ウェルカムなスポーツほど生涯スポーツで、インカレ先が充実しており、女子大生が大量に入ってきたりするので何かと楽しい大学生活を送ることが出来る。
筆者の場合は中高6年間運動部だったこともあり、運動系のサークルの方が断然居心地が良いと新歓の時に感じた次第である。
勿論中高6年間運動部でなかった場合は話は違ったのかもしれないが、それでも東大の場合は、遥かに運動系のサークルの方が色んな人種が混じっている。運動系のサークルに所属していると、自分が東大生であることを忘れる。誰も難しい小話はしないし、むしろそのような文化的な教養とか意識高いビジネス系の話には興味がなさそうである。
筆者が見てきた感じだが、文化系のサークルになると本当に特定分野においてはセミプロレベルの学生が在籍するし、ガチ度も運動系のサークルより上である。勿論運動系のサ―クルの場合は、体育会が上位互換として存在するというのも大いに関係しているとは思う。
また意識高い系のサークル(留学系、投資系、起業系)でも当然、勉強だけ出来るタイプの東大生はついていくことが出来ない。
結果的に「受験勉強だけ出来る」凡庸な東大生の多くは、運動系のインカレサークルに入って適当な4年間を過ごすことになる。
3.理科の実験や実践型の授業との相性の悪さ
筆者が理系を諦めたのは、実験系の授業が中高いずれにおいてもとても苦手であったからである。手先が器用でなく、要領も悪かったので、そつなく実験をこなすことが出来なかった。これは理系の特に、実験や実習が多い学科に行くと卒業出来ないのではないかと思い、結局文系に進学した。
(今思うと、情報系の学科であれば何とかなったのではないかと思うのだが、当時は情報系の学科はマイナーな存在で、考えもしなかったというのが正直なところだ。非常に残念)
そして大学に進学後、文系であっても前期教養課程においては学生同士が議論する必要がある参加型の講義があるのだが、筆者は殆ど一言も発することなく最後に論文だけ提出して、何とか単位をもらえたことを記憶している。
そもそもテーマが共産主義がなんちゃらとかで、全く興味がない上、誰かと議論するという参加型の講義は、小学生以降まともに受講してこなかったので、議論する力が皆無に等しかったのである。
一応周りの東大卒もペーパーテスト至上主義の中で育ってきたと思うのだが、筆者のように議論についていけずポツンと座っているだけと言う学生は少なくともクラスにはいなかったように記憶しているので、筆者は割と極端な例なのかもしれない。
ちなみにこの議論する力の無さは、インターンシップや選考のグループディスカッションでも露呈しており、東大卒と言う学歴によりお情けで何とか通過していたように思える。
4.聴覚での理解が難しく、視覚優位
正直筆者の場合は、聴覚での理解に何らかの障害があるのではないかと感じている。
耳で聞いたことを頭の中で整理して、その場面を具体化して思い浮かべるという事が全くできない。
運動系の部活の時は、少し理解が難しい練習メニュー等も存在するのだが、指示内容を適切に理解することが出来ず、皆がその練習をやっているのを見て、ようやく理解することが出来ていた。公立中学の普通の学生でも理解出来ており、筆者だけがいつも練習メニューを理解出来ていなかった。
紙に書いてもらえたら、理解できないという事は全くないので、社会人になってから議事録が見れるようになってからは本当に助かっている。
その点、ペーパーテストは、その殆どが最終的には視覚を通した理解になる。
勿論授業は聴覚を通じた理解が最初に来るのだが、それでも教科書を見ながら考えることが出来るし、最悪授業を聞いていなくとも、参考書を見れば理解できるようになっている。
実は大学以降の学習ではこれに変化が訪れると感じている。そもそもペーパーテストだけで単位を取れるのは、経済学部と法学部だけであるし、実習型の授業が増加してくる&参考書が受験ほど充実していないので、確りと講義を聞いている必要があるからだ。
何回か書いてあるかもしれないが、法学部もしくは経済学部でなければ、筆者は卒業出来なかったと思うし、国語が苦手だったので法学部も怪しかったかもしれない。全学部の中で経済学部が一番ペーパーテスト至上主義者には甘いと思う。
5.新しく何かを創り出すのも苦手
勉強だけ出来るというと博士課程に在籍して、日夜研究活動に勤しんでいる学生を思い浮かべるかもしれない。それは全くの間違いで、ペーパーテストだけが得意なタイプは、何かを新しく生み出すことに長けている訳ではない。博士課程は、論文を出す必要があるのでこちらも卒業出来ていなかった可能性の方がたかい。
決まった正解を追い求めるペーパーテストと決まった正解が存在しない研究活動では、必要な学力や能力は全く異なったものである。
唯一自分が新しくこの世に何かを生み出すことが出来るとすれば、noteに書いているような文章くらいだ。
6.仕事の実務能力の低さ
ペーパ―テストだけが得意な者はその学歴と比べて実務能力は低いことが多い。
皆さんの周りにもいないだろうか、難関資格を持っていたり、資格ホルダーで一見熱心そうであるのに、実務能力は低く、更に業務のやる気もないような社員が。
よく考えると、ペーパ―テストで必要な能力は、数ある能力の中の非常に限定的な領域である。
その一方で実務では幅広く色々な能力が必要だ。文書作成能力は当然として、聞く力、企画する力、調整能力、専門性、コミュニケーションスキル、細部にまで目を配る力、空気を読む力、プログラミング、タイピング等幅広いスキルが要求される。
ペーパ―テストで測定できる能力は仕事で必要な能力のごく一部に過ぎない。当然、入試ほど高度な数学は大抵の業務では不要な訳で、そもそも勉強と仕事は別競技である。
7.真面目な優等生とは限らない
日本では勉強ができる=真面目で勤勉というイメージがあると思う。
これは、勉強=辛くて我慢しないといけないものという認識があるからだと思う。
確かに勉強が辛いものであるならば、長時間机に向かえることは、勤勉さの証であると思う。
その一方で世の中には勉強が辛くなく、むしろペーパ―テストで高得点を稼ぐことがアイデンティティになっている人種が存在する。
彼ら(筆者自身も含む)にとって、勉強はゲームのようなものであり、自分にとっての生きがいである。
だから勉強していてもさして疲れないし、むしろペーパ―テストを解いている時には特有のアドレナリンが出る。
自分自身は人生で真面目だったことはなかったと思う。不真面目でもないのだが、いわゆる優等生タイプではなかった。むしろ授業中はいつも上の空だったし、内申点も悪く、生徒会に入っていたことも一度もなかった。会社に入ってからも勤務態度の悪さを度々注意されたことがあるので、どちらかと言うと劣等生に分類されると思う。
基本的に勉強は辛いものなので、勉強ができる人は大抵真面目だが、一部には勉強を一種のスポーツ感覚で捉えているものがおり、そういう人種は真面目さとは無縁なこともあるということだ。東大生が全員真面目かと言われたら、全然そんなことないというのが、あそこで学生時代を過ごして感じたことである。
8.興味関心の対象が限定的
これも筆者に当てはまる。
筆者は学歴の話や経済の話、資格の話等には興味があるがそれ以外のテ―マには正直疎い。つまり興味関心の幅が非常に限定的だ。
これは発達障害ゆえのものであり、高校時代はたまたまその関心の対象が受験勉強だった。田舎に住んでいたので勉強以外にやることがなかったというのもある。
9.予後不良に陥りやすい
これも当てはまる。筆者のキャリアは、正直東大卒としては残念だ。東大経済という実務的な学部を卒業し、英語も出来たので順当に行けばもっと輝かしいキャリアがあったかもしれない。というか仮に筆者が人並みの実務能力を有していれば、経歴だけで言うと外銀とかに入れてもおかしくなかったと思う。
ただ実際にはそうなってはおらず、就活も失敗し、会社でも落ちこぼれた。
これはひとえに筆者に致命的な欠陥があったからだと思う。それはあまりにもこれまでに経験してきたことが限定的で、自分が苦手なことからは逃げてきたからだ。
【最後に】
「勉強が出来る」というのは、ある意味恵まれた才能だと言える。私立の医学部の学費は6年間で3000万程度、高いとこだと5000万近くはする。その一方国立医学部であれば6年間で400万程度であろう。
その差は凡そ平均で3000万程度。
私立の医学部に進学するのは、都会に子どもを残したい、子ども自身が残りたいという動機もあると思うが、それでも多くは国立の医学部に進学する学力が足りないという事情もあると思われる。
そう考えるとペ―パ―テストが得意というだけで3000万余分にコストがかからなかったことになる。(医学部進学の場合は)
勉強が出来るというのは、一部の人間からしたら大金をかけてでも子どもに身に着けて欲しい能力なのである。中学受験であれだけ親が必死になるのも、子供に学力を付けさせたいからだ。
普通の人は勉強も出来ないので、勉強だけ出来るというだけでも十分に価値があるはずなのだか、問題はその能力が発揮できる局面が人生の最初の方に集中してしまっており、後半では殆ど活かせる局面が無いと言うことだ。
つまりせっかく勉強が出来るならば何らかの形で利確しておいた方が良い。
社会人になってからその才能を活かせるフィ―ルドは非常に限定的なのだから。