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桔梗

 夏のある日のことである。浴衣をゆるりと着付けた、頭のたぼのふわりとした女が、茹だるような暑さに何も手につかず、畳の上に足をくずして腰を委ねている。
 静かな座敷。風鈴の音に、ふと庭へ目をやると、桔梗の花がすっと背筋を伸ばし、凛々しく可憐に咲いている。女は一度座り直して腰を起こし、庭へ降りて、そのうちの一茎を剪ってくる。花差しを前に、白い、まあるい指先が、さっきまでの暑さも忘れて、ああでもないこうでもない、と花を色々に差し替えている。


 コンクリートマンションの蒸し暑い部屋で、私はそんな空想に耽っていた。近頃、花をきらさないようにしている我が家では、今、南向きの出窓に、桔梗の花が咲いている。スリットの効いたガラス瓶に生けられて、紫の花は真っ直ぐに茎を伸ばし、星のような五つの角をツンと開かせている。

 そういえば、おととしの夏、京都の瓜生山へ、大学の一般聴講に通っていたころ、大学近くの金福寺の座敷で庭の桔梗を眺めたことがあり、どうやらその時の記憶が私の空想を手伝ってくれたようだった。
 その日はたしか祝日で、聴講のために、暑いなか、街の人混みをくぐり抜け、さらには郊外まで出向かねばならないことに私は億劫になっており、重い腰を上げ、なんとか外へ出るための口実に母を誘った。母はあっさりと承諾し、早速支度を始めてくれた。この母から生まれておいて、私の腰の重さといったらない。思えば、私は生まれてくるときからそうで、分娩が始まってからもなかなか生まれてこなかった。結局、朝の診療時間に間に合うように、と吸引機で引っ張り出されてようやく生まれてきた。腰の重さは生来のものなのだ。

 大学周辺のお寺をいくつか巡り、最後に訪ねた金福寺で、庭の一角に、立ち姿よろしく涼しげに咲く幾本の桔梗を眺めた。夏の日差しは強く、座敷の仄暗さが避暑のよろこびを与えてくれ、開け放した寺の中を風が一息に通り抜けてゆく度、そのよろこびは増した。

 家に咲いていた桔梗は三輪だったが、ひと茎にたくさんの蕾をつけていて、それらが花開くのを家族で楽しみにしていた。が、それらにはほとんどなんの変化もないままに、初めに咲いていた三輪は順に枯れてしまった。
 「わたくしは、咲くべきところでしか咲きませんの」とでもいうような気位の高そうな姿に、私は、土のないところで花を育てるのは難しい、やはりダメか…と、ほとんど諦めてしまっていた。
 緑色の、グリンピースのような小さな蕾だけが、私たちの期待に容易には靡かぬ風情で、固くつぼみ、花瓶に取り残されていた。

 すっかり蕾のことを忘れた頃、隣の部屋で煙草をを吸っていた父が「あっ!」と大きな声を出した。驚いて駆けつけると、父の指の先には、さきほどまで固く閉じていたはずの蕾が、ぱっかり咲き初めている。
 花はまだ小さく、緑色のままで、よく見ると花弁の脈がわずかに紫がかっているが、ほとんど萼と見紛うような姿をしている。が、いくら小さくとも、緑がかっていても、むつかしくつぼんでいたものが、全身、はじけるように花開くことは嬉しく、溢れんばかりのエネルギーがこちらに届けられるような気持ちになり、その姿は、どこか自分の生まれたときと重なるような気がした。
 牡丹、梔子くちなし、百合、桔梗。この出窓で咲いた花は、いずれも、私たちの目に触れないときにそっと開いた。時に、「パラ」と音を立て、まさかと思ったら花弁の一枚が開いていて、蕾がゆらゆらと揺れていることもあった。
 誰もが沈黙の中にいて、ただそれぞれに没しているとき、それぞれのあるがままが放たれる。花は、部屋を美しく飾る、というよりも、あるがままに咲くその姿に、かえって心の飾りが洗い落とされ、そこに住む人間を素朴に、素直にしてくれる。



トップ画像は、金福寺の公式Xからお借りしました。
https://x.com/konnpuku

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