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雪ふる嵐山


 大寒波到来の予報どおり寒い朝、マルーン色の列車の車窓から見える空は晴れ晴れと澄み渡っていた。

 年度末の調整で珍しく平日に休みが取れた母と、二月の初め、嵐山に出かけた。
 ここ半年ほど足が遠のいてしまっていた美術館へ行きたい、というのが私の希望で、近畿で開催されている美術展を色々調べるうち、嵐山にある福田美術館の「東山魁夷と風景画-日本から世界へ-」に行くことになった。そして、近くにある嵯峨嵐山文華館でも『アイラブ百人一首』という面白そうな展覧会をしていたので、併せていくことにした。
 平日に母と出かける、というだけでどこか特別な感じがして、前の夜から時計にアクセサリー、マフラー、手袋、…と楽しみに準備をした。いつもは出かける直前にドタバタと用意をしているような私が前日から準備をしているのに驚きつつ、「準備家」の母もいそいそと支度をしていた。私のものより、ひと回り小さい母の時計やアクセサリー、手袋などが、私の支度の隣にかわいらしく並べられている様子に、旅の楽しみが増した。

 列車を降り、少し行くと視界が開けた。冬の空に墨色の枯山がゆるやかに連なり、川は朝の光を浴びてきらめいている。渡月橋がゆるやかなアーチを描いて、賑やかな向こうの岸へと人々を誘っているのが見渡せた。
 橋から見下ろす川面には朝日がきらめき、黒い鴨たちが足をぱたぱたさせて心地よさそうに泳いでいく。ときどき息を合わせて一斉に水に潜り、小さな飛沫をあげるその様子、朝の光を浴びて輝く冬の川を、寒そうな気配もなく楽しそうに行く鴨たちの様子に、つめたい川の水さえ気持ちよさそうに見えてくる。

 橋を渡って程なく、楽しみにしていた東山魁夷展が開かれている福田美術館についた。入り口は思ったよりもこじんまりとしていて、ガラスに印刷された網代紋様が、差し込む光をかたどって、美術館のエントランスに和柄の影を写し出していた。

 展示室の扉が開き、暗い室内から微かな光を放って浮かび上がっていたのは、深い青色がたゆたう一枚。
 夜の微睡み。木々は佇み、静かな月光に照らされた鏡面にその景色が広がっている。

 来場者を待ち構えるように展示されていたそれは、図版でも目にしたことのある有名な『修学院離宮』の絵で、想像していたより随分大きかった。図版で見ていても、やはり本物の持つ魅力や迫力は格別で、美術館へ行くたび、それが本に印刷されたものとは、実は全く異なるものなのだということに思い至る。

 微妙な違いのあるさまざまな青が夜の光を幾重にも重ね、膨らみ、木々のさざめき、月の清光となって妙なる空気を醸しだす。絵を鑑賞するというよりも、絵の世界に覆われてしまうような気がしてくる。

 東山魁夷展を選んだ最初のきっかけは、大好きな大観や春草の名前を出品リストに見つけたからで、私はこれまで東山魁夷の絵や作家についてはほとんど無知だった。が、魁夷の絵や随想文に触れて、私はまた一人、自分を虜にする日本画家を見つけてしまったのだった。
 描かれた木々や山、空、澄んだ鏡面、そこに漂うしっとりと清浄な空気。どの作品にも独特の柔らかさと静けさがあり、やさしいタッチのその奥に、何か画家のつよい想いが寡黙に、潜んでいる。

 大観や春草の朦朧体に似た気配はあるけれど、魁夷の描く水や光や空気はさらにピュアな感じがして、自然の源泉、真理の光、そういうものを感じさせられる。
 「日本」にこだわる風景ではなく、目の前の木立や漂う湿気、夜空の星の光をそのままに描き出すうちに見つかる自然の風景。
 自然の声に耳を傾ける瞬間、その静けさの中に佇む風景が、絵をみる人の心のうちにある、名もなき感情にひたりと触れ、包み込み、癒してくれる。時に人々脅かし、時に人々を救ってきた純粋な自然の風景、魁夷の筆になったその風景は、私の心を静かに、柔らかくほぐしていく。
 大観や春草、小野竹喬の絵もたっぷりと堪能し、ミュージアムショップでは魁夷の随筆集『日本の美を求めて』も買うことができ、私たちは大満足で福田美術館を後にした。

 そして、二つ目の目的地、嵯峨嵐山文華館で『アイラブ百人一首』の展示を見ているとき、窓の外に雪が舞い始めた。
 い草の匂いがほのぼの薫る百二十畳もの広い畳の間で、母と私は外を眺めた。
 山の細い木々を背に、小雪がちらちらと舞い落ちていく景色は、壁一面がまるで屏風絵のようで、思いがけぬ美術品にしばし目を奪われた。

 分厚い雲に覆われて、つめたくなった雪の嵐山に、椿や山茶花、南天が、いっそう濃く、つややかに咲いている。光を浴びて楽しそうに水の中を泳いでいた鴨たちさえも、曇天のもと、岸の草むらに身を寄せあって丸くなっていた。

 さて、母と私の外出で最も危険なのが、食事をする場所を決める時である。観光地の場合はとくに危ない。
 ふだんは華やかで賑やかなことが好きで、暮らしを良くするため、必要な日常の贅沢には惜しまずお金を使うのが私で、その反対になるべく倹約、節約の工夫を凝らすのが母だ。が、しかし、ひとたび外へ出るとそれはたちまち逆転する。いつもはまめまめしく倹約をしている母が、そこそこ良い食事どころの前で「いいやん、いいやん。せっかく来たんやし。このくらいは予算も見てるしさ。」と突然太っ腹になり、羽振りの良さを発揮して来るのだ。普段はかなりキツく縛っているお財布の紐が旅先では緩められているらしい。

 私はと言えば、「観光地ってだけで、ランチに2500円って。土地のものが出て来るでもないのに。私に2500円渡してくれれば、握り寿司に小鉢の類も用意して、日本酒までつけた贅沢ランチ作れるわ。ぜんぶ鑑みても、価値と金額があんまりにも釣り合ってへんし。みんながみんな、観光で浮かれてお財布のヒモ緩めると思ってたら大間違い。高いだけでいいもん食べてると思うなんて芸のないこと、私はしたくないねん。目利きっていうのはそういうもんです。」と、かなり偉そうな調子となる。
 価値観の違いにより、浮かれた街を二人は不機嫌に歩き回る。危険な時間帯である。

 この日もその兆しがないではなかったが、吹雪となりつつある雪が二人のことを救ってくれた。
 降り頻る雪に急かされるようにして暖簾をくぐったお蕎麦屋さんは、私からすると高級ランチだった。が、そこが川村曼舟という画家の旧邸を改装した趣のある建物で、かつては魯山人や大観も訪ねたことがあると知り、さらには川と橋を望む眺望の良さに、私はケロリと機嫌が良くなり、すっかり良い気分になってしまった。

 渡月橋と大堰川を目前に眺める窓辺の席で、向こうの山の小さなお堂にこんこんと雪が降るのを眺めつつ、母と他愛もない話をしながら暖かいお蕎麦を啜った。
 美術館に行って、気に入った作品があると、随分長い間それに見入ってしまうために、私は美術展へはほとんど一人で行くことにしている。けれど、最近は母も私の興味に巻き込まれて、一緒に作品を楽しむことが増えた。近場とはいえ、二人でいろいろなところを訪ね、美しい芸術品に触れ、美味しいものを食べ、旅を分かち合うことができるのは嬉しい。
 ふる雪を眺めつつ交わした、なんということはない会話もなぜか特別なものに思えてくる。それに、美術展を見た後の街の景色は、どこか日本画のようにも見えてきて…、それは画家たちの筆の力によるのか、幸せな一日を惜しむ心からくるのか、どちらにしても、帰り道の景色の方が、情緒あふれて感じられるのだった。

 美術展の入り口は、実はこの渡月橋だったのだ。美しい山と川、雪景色に恵まれた一日の終わりに「ここ渡れば元の世界に戻ってしまう」と寂しくなる。

 此岸と彼岸をつなぐ橋を人々が行き交う。少し日が差して、雪が小さく舞うなか、私たちは枯れ山を後にして列車に乗った。



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