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法と言論

 前回記事の続編です。

 この一件に関して、社会的な見方、あるいは倫理的な見方以外に、私は「法」からの見方がわからなかったため、自分でも調べ、専門家のもとにも足を運んだ。
 それらを通じて分かったことは、法のふるいにかければ、私が私信の言葉を引用したことと、藤井先生の強い言葉だけが残る、ということ。

 物事の本質はうやむやむになる。

 そうして、それゆえに、言論の場があるということも知った。

 法というものは、本当ならば私たちが安心して暮らすことができる、そのためにあるべきだと思うのだけれど、その存在がだんだんと私たちの表現を狭くし、やがて感情や思考の幅さえ狭くして、自由やそれに伴う自己の責任をも放棄させているように思う。法を基準に考えるということは、一見真面目なようにみえて、実は、自分の責任を他に委ねているに過ぎない。

 この件が教育の幅を狭くすることのないように、いえ、私はむしろ、こんなことが起こる前から、教育者は教育者として、正しいと思うところを現場できちんと表現出来ねばならないと思っている。

今回のことは、理屈の上で「教育」ということにすり替えられているけれど、お酒の席での単なる失言でしかない、それを教育と呼びますか。

 形式ばかりの事項を避けるがゆえに、施される教育がまわりくどく陰湿になり、教育されるものが苦しめられている。教育する者のやり方をどう変えようと、つまり、ゲンコツであろうが、丁寧な言葉使いであろうが、理不尽なものに対して教育を受ける側が感じる苦しみは、何一つ変わらない。反対に、然るべき叱責すら法に問われるのであれば、それこそ、教育などというものは成立しようもない。ハラスメント、それは人の目につかないところやオフレコードの場に潜んでいるのであり、本当の悪は、分かりやすく裁かれるようなことはしない。裁けないから、悪なのだ。

 教育に限らず、あらゆるところで、人間と人間同士で向き合うことができなくなっている。学校では、コンプライアンスと感情豊かな子供たちが向き合い、社会では、コンプライアンスとコンプライアンスが向き合っている。コンプライアンスが人間ごっこをしている。この茶番劇の中ではなく、私は私の「生」を生きたい。

 今回の件、私に対して強い言葉で非難されたのは、藤井先生ではあるが、⎯⎯ それはたしかに私に強い衝撃を与え、今でも納得できていないところもある。けれど、その心や思い、藤井先生が感じている責任から出た言葉、そういったものは感じるし、何より、このこと以前に私は、藤井先生によって、確実に、ひとつひとつ、新しい挑戦の場を与えられてきた。若い私を大胆に起用してくれたことも、藤井先生の度胸があってのことだったと思う。私の書くものに対しても「まだまだ。」「全然良くない。」「今回の話は面白かった。」などおっしゃってくれた。ラジオ出演の機会があったとき、それを活かせなかったことに対しても「言論活動を仕事として始めたのだから、今回のことは恥と思いなさい」と叱られたが、翌日メールでアドバイスをくださった。創造に向けての挑戦の中から、失敗による破壊が訪れる。私自身の変化と創造が自然に生まれた。そう言ったことを通じて、運や縁の導き手になってくださっているように感じるところもあったので、今回の不掲載の判断は受け入れているところである。

 それでも、私が藤井先生との面会をお断りしたのには、そこに浜崎氏の作る「空気」を感じたから。以前、小林よしのり氏から浜崎氏への批判に対し、ご自身のブログで”「クライテリオン」への批判”と、矛先をすり替えていらしたのをみたけれど、氏のいう「仲間」や「信頼」は、そのような自分の身を守るための場所、保身のための利用価値に置き換えられているように見える。このことに関して、そのような作られた空気の中で、私は藤井先生と向き合う気はないし、実際、その理由もない。私は、藤井先生の批判でもクライテリオンの批判をしているのでもない。

 お酒の席で口が滑った程度のことの言い訳に教育論を論い、そして、それを批判している私に「応答責任は藤井先生にある」と。私への応対を避け、無理筋の言い訳を他人に任せている浜崎氏に、私は「言論人ならば、自分の言葉で、その考えるところを述べてほしい」と思う。藤井先生がどのような言葉を使うか、その勘所や琴線を知っていながら、何かを言わせる事は、私に対しても、藤井先生に対しても極めて失礼ではないか。

 教育者、さらには、言論人として、自身の「言葉の失策」を認められない事の表れに過ぎないのではないか。そこに、筋がありそれを正当に主張できるのであれば、ご自身の言葉でそれを語るべきではないか。そこで言葉が交わされるから、何かが創造されるのではないですか。責任を放棄したり、分散させたりすることで、自身の言論を正当化するべきではない。

 言論に求められているのは、真理の追求があらゆる角度から行われる面白さであり、そういうものを読者も巻き込んでともに求めていく喜びなのではないですか。そのことをわきまえて、法は言論に対して「真実が求められるために必要な場合には法の介入はしない」ということも明確に言っているのである。

 「私信メールの引用」。私の原稿について氏は「私信」というその形式についてのみ、言及された。それ以外、原稿の中身については、何一つ触れられていない。私にとってはメールでのやり取りがない限り、自分の考えを表現できないため要点をまとめたに過ぎない。氏の正しいとする教育論を問うことに、何も不都合はないはずである。法に問われるか否かはわからないところだ。が、法に問うたところで、そこもまた言論の場である。原稿の中身には一言の応答もなく「私信メール」などというのは、言論を法によって脅かしているだけだ。法は真理の追求や善悪の判断はできないけれど、言論には、それを裁くのではなく、問い、考える力がある。私は決して法を軽視するつもりはない。けれども、真実を伝え、真理を追求しようとするときには、常に、そのリスクと隣り合わせになるのではないか。

 法が言論を問えるのならば、言論も法を問えるはずである。法や国家、制度など、外側の充実と増加が、内側の不在を生み出しているように見えてならない。他のものを軸にして、内側が不在になるあまり、他者の生になんの躊躇もなくうっかり踏み込んでしまうのではないか。自分の生に責任を持っている人は、他人のそれをもわきまえる。

 生きた言論は一体どこにあるのか。生そのものは予測不能で、おそろしい。生きた瞬間というのは、きっといつでもそういうものだ。それゆえ生きた言論を取り扱うことは、とても勇気がいること。

 しかし、法やルール、常識、空気への過剰なリスクを考えすぎるあまり、その生は狭くなるどころか、自分の生命の責任さえも失ってしまい、そうして、知らず知らず、他人に責任を委ねるようなことをしてしまっている。社会や法に、自分の人生や素直な感情までをも、知らず知らず預けてしまっているような気がする。責任と聞くと、なんだか重苦しく、堅苦しく感じるけれど、そうではない。この責任があるからこそ、人は文字通り自分に由って自分が在る、自由自在に生きられるのだと思う。


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