幻想曲
曇天というだけで、街はいつもより静かだというのに、「台風が来る」というので、心なしか、あらゆる建物がいつもより控えめに、どこか身構えたようにじっとしているような気がする。
踊りのお稽古やお手伝い、連載の執筆や知人の同人誌の原稿の準備、など、それらが落ち着き、ようやく夏の終わりを感じていた八月末、貸し出し延長をしていた本を返しに、久しぶりに図書館へ行った。
「サンダルで行くんやったら、自転車気をつけろよ」
と、出がけに父に言われ、
「うん、大丈夫」
と答えたが、どんよりとした外の気配の中で、いかにも「楽しい夏」といった雰囲気のサンダルはどこかしっくりこず、ペダルの上でサンダルだけが空回りしているような気がした。
図書館のある会館に入る。ちょうどジムを終えたおじさんたちが、スポーツバックを提げて帰ってゆくところだった。
蛍光灯が、建物内全体をさめざめと照らし出している。
古いエレベーターに乗って、3のボタンを押し、ほっと一つ、息を吐いた。
扉の上にある、地下二階から五階までの案内を眺めていると、その横に「管理責任者」のネームプレートがあるのを見つけた。
私はその漢字四文字の名前を見つめながら、中年の作業服姿の男を想像した。エレベーターに「点検中」の札をかけてシステムをストップさせ、滑車や金属の綱の滑りを確認して油を差したり、工具を使ってネジを締め直したり、エレベーターの隙間に落ちてしまったものを拾ったり……
ポーン、という音と一緒にエレベーターの扉が開き、私の勝手な妄想は終演した。
エレベーターを降りると、まず正面に、小さなショーケースが見える。
ここにはいつも、図書館おすすめの絵本が数冊展示されていたり、区民会館で開かれた絵画教室の生徒さんたちの作品が飾られていたりする。
前に来た時は、たしか、戦争を知るための特集で、当時の召集令状やブリキのお弁当箱、鉄のヘルメット等が展示されていた。夏という季節が、戦いや国の歴史、人の生き死にを考える季節になっているのは、日本だけなのだろうか。
小さいショーケースだが、展示を見ることは、図書館に来るときの小さな楽しみのひとつとなっている。
その日、ガラスを覗いてみると、革のハードケースの中に、銀のピッコロ、その横のケースにはにはホルンが、静かに納められている。楽器は古いものなのか、金属が少しくすんでいる。
古い楽器に惹かれて、私はつい長く足を止めてしまった。
展示は『大阪市音楽団百周年記念展示』と題されていて、この音楽団は日本一古い音楽団らしく、「市音」の愛称が正式名称に変わり、今は「Shion」というオーケストラになっているそうだ。
楽器のほかには、40周年や50周年の記念演奏会の、クラシカルなプログラム、結成当初の団員たちの白黒写真(ラジオ演奏した時のもの)など、小さいショーケースの中に、百年を彷彿とさせる品が並べられていた。100周年のプログラムはどんなデザインになるのだろう。100周年の記念写真もいつの日か、昔を偲んで飾られることになるのだろうか。
展示のなかで、私が最も心奪われたのは、「幻想曲」という小さなプレートが立てられた、手書きの楽譜ノートだった。
ノートはメインのページと、その前のページが開き掛けて展示されている。
小さい頃から「誰かが書いた文字」に、なぜだか魅力を感じてきた。あの人の文字、この人の文字、有名な人のメモでも、市井の主婦のレシピ帳でも、どれも魅力的なのだ。
文字には、紡がれた言葉以上にその人を表す力があり、その人の身体の一部、まるで皮膚の一片のような生々しささえある。
それで、「幻想曲」の楽譜に惹かれたのだが、しかし、「音符」が記された楽譜から伝わってくる雰囲気は、よく美術館や資料館で見るような「文字」の原稿やノートと違っていた。
黒い小さな音符が、淡々と、丁寧に、一定のテンポを保ちながら五線譜の上に載せられていく。
私は、数学者が、数式を書いていくような感じ、あるいは、時計職人が、円盤の中に小さな歯車をそっとはめていく様子を想像した。
休符やスラー、スタッカート、名前がわからない小さい帽子のような記号など、ともかくそれらは「言葉」とは別のもの、数字、記号、部品、といった、感情的というよりも理知的なものに見えた。
しかし、よく見ると、それらの記号はきちりきちりと頑なではなく、かといって勢い走っている感じでもなく、ふわりと軽やかなところを残している。
私は自然と、公演の案内を手に取っていた。
オーケストラの演奏会には一度も行ったことがない。前にテレビで、ヨーロッパにある劇場でドレスを着た観客たちが箱詰めになって演奏を聴いている、その様子を画面越しにみたことがあるだけだ。
こうして楽器や楽譜やを見ているうち、私は一度演奏会に行ってみたい気がした。
展示に夢中で、ショーケースを見始めてずいぶん経ってから、ようやく返却と貸し出しを終えた。
図書館を出ると雨がパラついてきていた。
帰って早速、先ほど借りてきた『そういうふうにできている』というさくらももこのエッセイ集を開く。
これは、さくらももこの産前産後、妊娠エッセイ集なのだが、のっけからお笑いセンス抜群の文章で、ケタケタ笑いながらどんどん読んだ。
その中のひとつに、妊娠中の鬱状態で考えたことの、かなり哲学的で宇宙的なことが書かれていて、
「私の魂のエネルギーは、今”厭世感”という虚しい感覚で波打っている。肉体のような物質ではないから、殺して消滅させることはできない。水に波紋を起こしたら、どんどん広がって次第に拡散を始め、やがて静まり波紋は消滅するであろう。それと同じように魂のエネルギーを消滅させるには、宇宙空間でその波動が拡散して消滅するしかないのではないか。」
とある。
私はびっくりした。ちびまる子ちゃん、侮るべからず。このエピソードに私はすごく納得してしまった。
人には喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみもあるけれど、それらは身体中込み上げて溢れ出ることがある。私にとってそれはしばしば、書くという手段をとるけれど、十人十色、絵を描く人や歌う人、大きな声で笑う人、誰かにお喋りする人、色々あると思う。静かな湖に一匹の魚がその思いの丈に跳ねたとき、それはやがて波になって、広がり、別のものへと伝わってゆく。
図書館で見た「幻想曲」は、作家が亡くなった今でも、コンサートホールで音を奏で続けているし、さらにはそれが演奏されなくとも私のように、その楽譜からエネルギーを感じる人もいるくらいだ。魂のエネルギー、未だ止まず。しかしその音源は、インターネットで調べてみても一向に見つからなかった。幻想曲の名の如く、私にとってそれは音がなくてもそのエネルギーを伝えてくる、不思議な曲だったのだ。
「宇宙」と聞くと、幻想というより他ないくらい、大きく、広く思えるが、ひとりの小爆発がきらりと光って生み出す波動、それが合わさったり打ち消しあったりして、この膨大な宇宙を作っている。